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復興の光と影

被災から3年後、神戸市灘区の全壊した家のあった場所に、新しい家が建ちました。

両親は二度と地震で倒壊しないことを願い、重量鉄骨の家を再建しました。

たった3年で、元の家に戻れた・・・とても幸せなことだとは思いますが、長い長い3年でした。

私の22歳~25歳の元気いっぱいのはずの時期は、暗く、傷心しきった人生の1ページになりました。

生まれ育った六甲道の街に再び帰ってきたとき、私たち家族の「避難生活」は終わりを告げました。


一番最初の記事でも書きましたが、戻ってきた我が故郷「六甲道」はあまりにも変貌しました。

この六甲道周辺は、木造家屋の倒壊率が9割。

神戸の被災地の中でも、最もひどい被災地のひとつに挙げられた地域でした。

私の住んでいた桜口町、彼女(今の妻)の住んでいた琵琶町を含む、周辺の8つの町だけで死者200人超。

六甲道駅は、阪神間の大動脈であるJR東海道本線の中で、最も復旧の遅かった駅となり、NHKの人気番組「プロジェクトX」でも取り上げられました。
(プロジェクトX 第161回 2005年1月11日放送 「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」~阪神・淡路大震災~)


(写真は借り物です。JR六甲道駅開通の日の様子。テレビの取材車がずらりと並んでいます。当初、2年はかかると言われた復旧を、3ケ月弱で復旧させたことから、奇跡の突貫工事と呼ばれました。)


この我が故郷「六甲道」は、被害の甚大であった他の地域と同じように、大規模な区画整理、再開発の対象地域となりました。

商店街、市場が多く、どちらかと言えば下町情緒の濃い町並みでしたが、我が家が帰ってきた六甲道は、高層ビル、マンションが建ち並ぶ、ビルディングジャングルでした。


(写真は神戸市からの借り物です。六甲道駅南地区 震災復興第二種市街地再開発事業 全体写真)

大阪、神戸の商業圏に近く、住宅地として人気のこの地域に、大量のマンションが供給され、多くの人が集まってきました。

そう、ほとんどの人は、震災後にこの地域に来た人たちです。

ご近所さんは、ほとんど震災の前とは変わりました。

母校も取り壊され、建替えられました。


(写真は借り物です。私の母校:成徳小学校の旧校舎です。避難所として活躍し、避難所の役目を終えた後、建替えられました。
「戦争と震災をのりこえ、ごくろうさま旧校舎、68年間ありがとう」と垂れ幕が出ています。)

急激な人口増加に伴い、今は校舎が足りなくなり、震災の時のように、運動場に仮設住宅ならぬ、仮設校舎を建てられています。

今、この学校に通っている生徒は当然ですが、その親もこの小学校が当時どんな様子だったか?この街はどんな街の状況だったのか?知ってる人はごく僅かだと思います。

でも、それは仕方ありません。

いつまでも震災(過去)を見ていても仕方ありませんから。

ただ私は、自分の故郷があまりにも変貌し、自分の育ってきた環境がほとんど何も残っていない現実に寂しさを覚えました。

そして、あれほど戻りたいと願った六甲道への愛着も薄れてしまったのです。


ただ、実家が再建され、ここに戻れたことはとても嬉しいことでした。

と同時に、自分の両親の経済力に感心しました。

そして、こうした不慮の災害が自分の身に降りかかったときのために、備える必要があると痛切に感じました。

被災からの3年間を通じて、私自身が”家”に強い執着を持ち、どうしてもリスクに備えるような生き方をすることになったのは言うまでもありません。


私は実家再建の翌年、地震発生の瞬間を一緒に経験し、テントでの避難生活を過ごした、あの彼女と結婚しました。

彼女は私が鬱病に苦しむ間、私の唯一の心の支えになってくれました。

鬱病を早期に克服できたのは、彼女のおかげだと今でも信じて疑いません。

結婚と同時に、この六甲道の実家を離れ、神戸市東灘区本山に中古戸建を購入し、新たな拠点を築きました。

(その後の話は興味があれば、画面左にリンクを張っている「33歳年収600万円のサラリーマンが芦屋に家を建てるまで」をご覧下さい。このブログは2011年11月に書籍化され、全国の書店で発売中です。)

やはり、自分の家を持ちたかったのです。

家は生活の拠点です。

これがないときのツラさは想像を絶します。経験者としてこれは断言できます。

2008/02/19(Tue) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
コメント
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奥様と共に震災を経験され、病気を克服され、深い信頼関係を築き上げてきたのですね。
経験したくないこと、しなくて良かった事。
私にもあります。
そんな経験の最中に旦那さんに会いました。だから、その分旦那さんへの感謝も大きいですね。
喧嘩も多い夫婦ですが、やはり原点にある感謝は忘れてはいけないと思っています。

リックルさんのご両親の経済的体力、気迫はすごすぎですね。目標達成にはお金がかかります。お金を稼ぐ為には沢山働かないといけません。震災直後の大変な時に、働きどうしだったリックルさん一家を見習わないとと思いました。
by: apako * 2008/02/19 12:47 * URL [ 編集] | page top↑
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神戸出身の友達は、震災前の神戸の街の方が好きだな・・とよくお酒の席で言っていました。
リックルさんのそばに当時、支えとなる大切な方がいらしてよかったです♪そういう時も乗り越えたのだから、きっとこれからも力を合わせて何でも乗り越えていけますね!理想の形です。震災は、決して起こって欲しくないものだったけど、普段見えない大切なことに気付かせてくれたのかもしれませんね。
p.s.少しずつ、リックルさんのもう二つのブログも読み進めています(*´σー`)エヘヘ
by: ひまわりさん * 2008/02/19 14:28 * URL [ 編集] | page top↑
--apaさん、こんばんわ、ありがとう^^--

確かに共に苦難を経験した”同士”のような絆はあると自負します。(嫁はどう思ってるかは・・・?)
僕も夫婦の原点、いや、人付合いの原点は「感謝」と「尊敬」だと思っています。

家族は商売人でしたから、とにかく自分たちのことは絶対に自分たちで何とかする、したい、という体質です。僕も幼い頃から、そのイズムを注ぎ込まれました。だから誰かに依存したり、頼ったりするのがどうもキライだし、苦手です。
良くも悪く、この頃はホント必死でしたね。僕も今の倍くらい働いてました^^;
by: リックルハング * 2008/02/20 22:30 * URL [ 編集] | page top↑
--ひまわりさん、いつもいつもありがとう^^--

嫁には感謝してます。
病んでいたときの僕を見れば、それこそ普通の女性は去って行ったと思います。
「こんな頼りない弱々しい人じゃ、将来が不安だわ・・・」普通はそう感じたと思います。
しかし、嫁はなんか知らないケド、僕に付き合ってくれました。
そんなのもあって、「嫁には苦労させられん」みたいな、ハングリー精神が芽生えたのはあるかも知れませんね。

あっちも遊びに来てくれてるんですね。ありがとう^^
by: リックルハング * 2008/02/20 22:38 * URL [ 編集] | page top↑
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