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2017/03/12(Sun) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
あとがき

このブログを書き始めたのは、今年(2008年)の「1月17日」。

私はこの約1ケ月の間、他の震災にまつわるサイトの閲覧も含めて、どっぷりと震災の思い出に浸りました。

そのため、13年前の出来事が昨日のことのように思い出され、自分自身の中でも”風化”しつつあった、地震(地震だけでなく、全ての天災、人災、事故、事件)への危機意識を、再び持つようになりました。

今年の「1・17」は、そんな震災に対する思いを再認識したこともあってか、この大災害の”風化”を強く感じざるを得ませんでした。

神戸や阪神間では、多くの被災地で追悼の式典が行われ、これをキッカケに多くの人が、また危機意識を再燃させました。

しかし、私の職場である大阪では、「1・17」を口にする人は全く居ませんでした。

一部の神戸方面から通勤してくる同僚と、少しその話題になりましたが、それ以外の人にとっては、すでに過去の出来事(年表上の事件)になってしまっているようでした。

大阪は神戸の隣街。

神戸の惨状はよく知っていたと思いますが、あれほどの大災害であっても、やはり被災、避難生活を経験しなかった人にとっては、その”風化”は早いものです。

大阪ですら、そうなのですから、東京ではもう「1・17」と言うキーワードすら知らない人がほとんではないでしょうか。

私自身でさえ、その意識が薄らいでいたのですから、やむ得ないことです。




私にとって、「阪神淡路大震災」は一生忘れることのできない未曾有の大災害です。

しかしそれは、私にとって「未曾有」であって、他の人には普通よりも「少し大きな事件」程度かも知れません。

何度かこれまでも書きましたが、私もそれまでは、日本の、世界の、あちこちで起きる災害に対して、「大きな事件」程度と思っていました。

そして「1・17」のような、その「事件」の起きた日など、当然覚えてはいませんでした。

それどころか、あれから何年というようなドキュメンタリーを見て、

「あれ、まだやってんの?」

と、災害の後の復興にどれだけの時間を要するかなど考えることもなく、典型的な”他人事”として捉えていました。

マスコミが取り上げるのは、建造物が破壊された様子や、街が燃える様子、閉じ込められた人の救出劇などです。

私はこの被災体験で痛感したのは、震災直後の被害による苦しみよりも、避難生活での苦しみや、復興までの苦しみの方が何十倍もツラかったのです。
(実際に、被災直後の避難生活はしっかりと、客観的にブログを綴れましたが、その後のツラい避難生活はあまり深く触れることができませんでした。)

しかしこの復興までの道のりは、マスコミにとってあまり興味をそそる話題ではなく、そこにスポットがあたることはありません。

ですから被災者以外は、次第にテレビに映されなくなった「震災」を忘れ、

「あれはもう終わったこと」

としてインプットされていったのです。


この阪神淡路大震災も、どんどん”風化”していくことは百も承知しております。

私はこのブログを多くの方に読んでいただき、その”風化”を止めようなどと、大それたことは考えていません。

自分の貴重な体験を「記録」したことによって、これから自分自身の記憶の”風化”を少しでも遅らせることと、自分の子供に、

「お父さんとお母さんは、こんなふうにして大地震を生き延びたんだ。」

と言えることが目的です。

自分の体験を後世に伝えることの重要さを感じたのは、この震災の後の、ある大災害がきっかけです。


死者22万人以上、阪神淡路大震災の4000倍のエネルギーと言われた、あの「スマトラ島沖地震」での話です。


この地域も日本同様、100年から150年周期で大地震が発生しており、そのたびに大津波が発生していたそうです。

とある部族では、過去の大津波の話を先祖代々伝えてきており、

「地震が来たら、高台に登れ」

という教訓が、部族全員に周知されていました。

そんなある年のクリスマスの翌日、2004年12月26日、あの大地震が襲いました。

その時、多くの人が興味本位で、海を見に行ったのに対し、この部族は家族まとまって、一目散に裏山の高台まで走ったそうです。

どちらが命を落とし、どちらが助かったかは言うまでもありません。


もしも、家族はなればなれの時に大地震が来て、家に居れなくなった場合、どこで待ち合わせようか?

携帯電話はつかえません。災害伝言ダイヤルも結局は電話です。

こういったことを家族と話し会い、万が一に備えることが、被災経験からの私の実感です。


(写真は神戸市のHPからお借りしました。避難所の仮設電話に殺到し、悲壮な顔で家族の安否確認を伝える被災者の様子です。家族がばらばらになって連絡が取れない・・・それは想像を絶する辛さです。
万が一のとき、家族がどこかで会える場所を決めておきましょう。我が家では、念の為に2箇所決めています。)



そして、自分自身がそうだったように、人間誰もが当事者になるまでは、

「私だけは大丈夫」

そう思っていることがいかに恐ろしいことか、子供たちに伝えよう、そう奮起しました。

いつかくるその時に、命を落とす人と、生き延びる人との分かれ目は、こんなところにあるのではないかと思っています。

このブログを読んで下さった方が、

「自分にも来るかもしれない。」

少しでもそう思って下されば、阪神淡路、新潟をはじめとした、日本各地で起こった大地震によって亡くなられた方が報われることになるのではと考えます。


人ひとり死ぬことがどんなにツラいことか、それまでの人生で、命の大切さを学んできたつもりでしたが、この震災で6,400人余りの人が同時に命を失うという現実を前にして
、自分の命の儚さを痛感しました。

ちょっと思想がかっていると思われるかも知れませんが、私には何かやらなければならないことがあって、生かされたんだと思っています。

それを確かめるため、見つけるために、この震災で生き延びた命を大切にし、意味のある人生を築きたいと思います。



2008年2月   リックルハング





コメントしづらいブログだったと思いますが、最後まで読んで頂いて、ご意見・ご感想をコメントくだされば、嬉しく思います。

2008/02/23(Sat) | トラックバック(1) | コメント(69) | page top↑
すべてのご支援下さった方に、ありがとうございました
私の被災体験を綴った「震災手記」は、本当にあった話です。

そのリアリティをお伝えするために、最も適したものを見つけました。

昨日に引き続き、ネット上を探していて、画面に釘付けになった映像です。

この映像は被災当日~2日目の、まさに身の安全を確保することに奔走していたときの、私の体験そのものを残してくれていました。


工場のガスタンク亀裂によるガス爆発の避難勧告は、私の避難していた公園にも噂が聞こえていました。

情報がはっきり伝わらず、いろんな噂に人々が右往左往する様子。

毛布にくるまって、地面に座ったり、歩いたりする人の様子。

そういえば、映像を見て思い出しましたが、スキーウェアを着ている人は多く居ましたね。

また、最後の方に出てきた、公園の焚き火のまわりに毛布にくるまって夜を明かす様子。

常に聞こえる、救急車、消防車など緊急車両のサイレンなど。。。

見ていて、目頭が熱くなりました。



もうひとつ、避難生活でのなまなましい映像がありました。


車で生活する人。

上空をひっきりなしに飛ぶヘリコプターの音。

顔面を骨折したウチの親父と同じような格好をして、インタビューに答えるおばさん。

建物の中に怖くて入れないということ。寒くても外がいい・・・

水がないので、トイレが悲惨な状況になっている。

何も食べてないけど、食べる気がしない。

もっと大きな地震が来るという噂。。。

まさに、私が経験した避難生活そのままの映像でした。

見終わって、今の生活が本当に幸せに思えました。



最後まで「震災手記」にお付き合い頂きまして、ありがとうございます。

あの日から、もう13年も経過したんですね。

この手記を書き始めてからは、昨日のように記憶が蘇りましたので、13年の月日を忘れてしまいました。

結局私たち家族は、

テント生活を7日間、

私の会社の独身寮を間借りして、5日間、

兄の会社の社宅に移って、3年間、

の避難生活を経験しました。

家族は全員無事でしたが、避難生活中は精神的に病むことがありました。

愛犬2匹は、避難生活中に1匹は死に、1匹は失明しました。

ツライ思い出しかありませんので、この震災で何かを学んだとかは、あまり感じません。

この体験が、今の人生にどう生きているかも自分では分かりません。



震災ではもっと悲惨な目にあった人は山ほど居ます。

ご家族や親しい人がお亡くなりになられた方にとっては、このブログは気分を害するものかも知れません。

ただ私自身もそうですが、13年という月日を経て、風化しつつある震災の教訓を再度思い起こし、これから起こるかもしれない東海・東南海地震に備えるキッカケになれば、少しは役に立ったんじゃないかと思います。



最後に、

避難生活の間、お世話になった多くの親族、友人、会社関係、ご近所の方々に深く感謝申し上げます
とともに、

この阪神淡路大震災でお亡くなりになられた
6,400名超の方々、その後の避難生活で
お亡くなりになられた方々に、
心からお悔やみ申し上げます。
















(神戸ルミナリエ。このイベントが震災追悼であることを、私たちは忘れてはいけない・・・)


最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

このノンフィクションブログは、最後ひとつだけ「あとがき」を記して完結したいと思います。

2008/02/22(Fri) | トラックバック(0) | コメント(9) | page top↑
記録に残してくれた人たちに感謝

私はこれまで、震災について多くを語ってきませんでした。

鬱病との闘いがあまりにもツラかったので、震災経験がそれを思い出させるような気がして、話題にすることを避けてきたのです。

このブログも最初の頃は比較的客観的に執筆できましたが、愛犬の話以降は、なんとなく

「こんなことブログに書いて何になる?」

と自問自答しました。

更新の頻度が落ちたのはそのためです。

ブログは私の中では”楽しむもの”。

「こんな過ぎ去った過去の、ツラかったことばかり書いてどうするんだ・・・」

そんな葛藤があり、もうこのブログは閉じようと思ったのですが、応援してくれる方がいてくれることや、見られてるという責任も感じ、何とかここまで来ました。


しかしここ数日は、ここまで震災手記を綴ってきて、改めて当時を振り返ることができ、本当に良かったと思えてきました。

特にこのブログは、他の誰かに見てもらうのは本来の趣旨ではなくて、自分自身の記憶を「記録」に残すことが目的でしたから、最後まで書ききったことは自分自身の心の成長を実感します。

また、震災の画像を集めるのに、多くの震災関連のサイトを見てきました。

これまで、自ら地震の映像を見ることなど、ほとんど無かったのですが、このブログを機に多くの映像が残っていることを知り、記憶の掘り起こしの一助になりました。

さらに自分の知らない地震の一面も知るキッカケになりました。

震災後しばらくは自分のことで精一杯でしたし、直後は新聞もニュースも見れませんでしたから、ネットでそれらの映像を観て、もう少し広い視野で震災を振り返ることができました。

記憶の残った写真をお借りします。




(いろいろネット上を検索しましたが、この2枚の写真が、私の実家に最も近い場所の写真でした。実家から徒歩20秒のところです。)


こっちはもっと近い、徒歩10秒くらいの場所です。ただし、震災から7ケ月が経った後の写真です。



商店街はアケードだけが残り、店は全滅です。

「八幡市場」の看板が残っています。

すでに柵で囲われてしまっていますが、ここで私の両親は商売をしていました。

とても懐かしい写真です。


また、こんな映像を見つけました。

震災当日、こうして未曾有の大災害の第一報は伝えられていたんですね。



もうひとつは夜7時のニュース。



あるアナウンサーのとても印象的なリポートが心に沁みました。

「100万ドルの夜景と言われた神戸の夜景が、悲しい夜景になっています・・・」



今思うと、この震災を写真や映像など「記録」に残してくれている人が居たことを、本当に感謝しています。

私の人生の中で、間違いなく、大きな大きな1ページであった阪神淡路大震災。

この経験を、こうして自分で記録に残せたことに非常に満足しています。
2008/02/21(Thu) | トラックバック(0) | コメント(10) | page top↑
復興の光と影

被災から3年後、神戸市灘区の全壊した家のあった場所に、新しい家が建ちました。

両親は二度と地震で倒壊しないことを願い、重量鉄骨の家を再建しました。

たった3年で、元の家に戻れた・・・とても幸せなことだとは思いますが、長い長い3年でした。

私の22歳~25歳の元気いっぱいのはずの時期は、暗く、傷心しきった人生の1ページになりました。

生まれ育った六甲道の街に再び帰ってきたとき、私たち家族の「避難生活」は終わりを告げました。


一番最初の記事でも書きましたが、戻ってきた我が故郷「六甲道」はあまりにも変貌しました。

この六甲道周辺は、木造家屋の倒壊率が9割。

神戸の被災地の中でも、最もひどい被災地のひとつに挙げられた地域でした。

私の住んでいた桜口町、彼女(今の妻)の住んでいた琵琶町を含む、周辺の8つの町だけで死者200人超。

六甲道駅は、阪神間の大動脈であるJR東海道本線の中で、最も復旧の遅かった駅となり、NHKの人気番組「プロジェクトX」でも取り上げられました。
(プロジェクトX 第161回 2005年1月11日放送 「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」~阪神・淡路大震災~)


(写真は借り物です。JR六甲道駅開通の日の様子。テレビの取材車がずらりと並んでいます。当初、2年はかかると言われた復旧を、3ケ月弱で復旧させたことから、奇跡の突貫工事と呼ばれました。)


この我が故郷「六甲道」は、被害の甚大であった他の地域と同じように、大規模な区画整理、再開発の対象地域となりました。

商店街、市場が多く、どちらかと言えば下町情緒の濃い町並みでしたが、我が家が帰ってきた六甲道は、高層ビル、マンションが建ち並ぶ、ビルディングジャングルでした。


(写真は神戸市からの借り物です。六甲道駅南地区 震災復興第二種市街地再開発事業 全体写真)

大阪、神戸の商業圏に近く、住宅地として人気のこの地域に、大量のマンションが供給され、多くの人が集まってきました。

そう、ほとんどの人は、震災後にこの地域に来た人たちです。

ご近所さんは、ほとんど震災の前とは変わりました。

母校も取り壊され、建替えられました。


(写真は借り物です。私の母校:成徳小学校の旧校舎です。避難所として活躍し、避難所の役目を終えた後、建替えられました。
「戦争と震災をのりこえ、ごくろうさま旧校舎、68年間ありがとう」と垂れ幕が出ています。)

急激な人口増加に伴い、今は校舎が足りなくなり、震災の時のように、運動場に仮設住宅ならぬ、仮設校舎を建てられています。

今、この学校に通っている生徒は当然ですが、その親もこの小学校が当時どんな様子だったか?この街はどんな街の状況だったのか?知ってる人はごく僅かだと思います。

でも、それは仕方ありません。

いつまでも震災(過去)を見ていても仕方ありませんから。

ただ私は、自分の故郷があまりにも変貌し、自分の育ってきた環境がほとんど何も残っていない現実に寂しさを覚えました。

そして、あれほど戻りたいと願った六甲道への愛着も薄れてしまったのです。


ただ、実家が再建され、ここに戻れたことはとても嬉しいことでした。

と同時に、自分の両親の経済力に感心しました。

そして、こうした不慮の災害が自分の身に降りかかったときのために、備える必要があると痛切に感じました。

被災からの3年間を通じて、私自身が”家”に強い執着を持ち、どうしてもリスクに備えるような生き方をすることになったのは言うまでもありません。


私は実家再建の翌年、地震発生の瞬間を一緒に経験し、テントでの避難生活を過ごした、あの彼女と結婚しました。

彼女は私が鬱病に苦しむ間、私の唯一の心の支えになってくれました。

鬱病を早期に克服できたのは、彼女のおかげだと今でも信じて疑いません。

結婚と同時に、この六甲道の実家を離れ、神戸市東灘区本山に中古戸建を購入し、新たな拠点を築きました。

(その後の話は興味があれば、画面左にリンクを張っている「33歳年収600万円のサラリーマンが芦屋に家を建てるまで」をご覧下さい。このブログは2011年11月に書籍化され、全国の書店で発売中です。)

やはり、自分の家を持ちたかったのです。

家は生活の拠点です。

これがないときのツラさは想像を絶します。経験者としてこれは断言できます。

2008/02/19(Tue) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
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