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支えてくれる人たち・・・被災4日目

被災から4日目を迎えました。

2日目に名古屋から駆けつけた兄は、この日一旦、名古屋に帰ります。

兄はすでに結婚していて、名古屋に家族も居ましたし、仕事もあります。

兄は生活の目処がつくまで、「ここにいる」と言いましたが、ここで一緒に避難生活をするべき人ではないので、一旦家族の元へ帰ってもらいました。

ただでさえ不安な今の生活。

誰か一人でもその場から居なくなることは、普段以上に寂しく感じました。


しかし、この日は元気をくれる人が駆けつけてくれました。

父の弟で、私から見れば親戚のおじさんです。

同じ神戸市内で、自分の家も少なからず被害があったおじさんですが、被害の大きい地区に住む我が家のことが心配で、バイクで駆けつけてくれました。

昨日も来てくれたみたいですが、なかなか見つけることができず、今日ようやく会うことが出来ました。

家族全員無事な顔を見て、おじさんは人目もはばからず、涙を流して喜んでくれました。

感情豊かで、明るく、そして涙もろいおじさんは、兄が帰って、少し寂しい我が家を元気付けてくれました。


そして、「今、何が困っている?」「何が一番必要か?」を聞いてきました。

それを聞いて、おじさんは「また来る」と言って、バイクで2時間くらいかかるであろう、おじさんの家に戻りました。

テントを離れる間際、私を呼び寄せ、

「兄貴(私の親父のこと)は疲れてるな。○○がしっかりして、家族支えなあかんで。テント持ってて良かったな。しっかり頼むな。」

そう言って、デコボコの道をバイクで消えて行きました。


おじさんが去って、しばらくして、またテントに来客がありました。

見慣れた顔です。

私は一気に顔がほころびます。

私の彼女です。

震災初日から2日目まで、避難生活をともにしたあの彼女(今の妻)です。

彼女と彼女のお父さんが救援物資を大量に抱えて、テントにまた来てくれました。

さっき、おじさんが来てくれたことで少し気が晴れていた私は、さらに元気になったことは言うまでもありません。

驚きは彼女のお父さんです。

軽トラックに避難生活で必要であろう、ありとあらゆる物資を山積みにして、持ってきてくれたのです。

私の父に、

「その節は本当にお世話になりました。」

と挨拶し、

「不要なものもあるかも知れませんが、前にテントの様子を見て、必要と思ったものを持って来ました。余ったら、まわりの人に分けてあげて下さい。それから、これらは返して頂かなくても結構ですので、気にせず使って下さい。」

私たち家族は呆然としました。

そして、その物資の中身に感服の念を抱きました。

小学校に入ってくる救援物資では決して考えられない、細かな配慮のなされた差し入れでした。

小学校に入ってくる救援物資は本当にありがたいことでしたので、誤解があってはいけません。それを補う、本当に欲しかった、まさに今必要なものがたくさん入っていたのです。

食料・水などは小学校の救援物資で、十分に事足りました。

彼女のお父さんの差し入れに食料はありません。

下着・肌着(男性用、女性用)、くつした、水のいらないシャンプー、カラダや顔を拭く専用のウェットタオル、電池多数、懐中電灯、私の持っていたキャンプ用バーナーの燃料、ロープ、メモ、ボールペン、ハサミ、爪きり、収納用コンテナ、タオル多数、ティッシュペーパー多数・・・などなど

風呂に入れない、洗濯できない、着替えがない、灯りが欲しい、お湯を沸かしたい、布団毛布を干したい、メモをとりたい、爪を切りたい、テントの中のモノを整理したい、毎朝テントにつく結露をふき取りたい・・・まるで我が家の避難生活の苦労を知っていたかのような、この差し入れ。

もちろん、テントで一夜を過ごした彼女の助言もあったとは思いますが、この細かな配慮には声が出ませんでした。

今でもこの義父は、配慮の細かい、正義感が強い人ですが、この時の義父(当時はまだ彼女のお父さん)の器の大きさには感動しました。

彼女の父は私のことを、ひとり暮らしの彼女(娘)を助け出し、テントに入れてくれた命の恩人のように思っていました。

勝手に彼女のマンションに転がり込んでいただけの私は、そんなことなど言えるはずもなく、ただうつむいて、「ありがとうございます。本当に助かります。」とお礼を述べ、頭の中では「申し訳ありませんでした。。。」と反省するしかありませんでした。

その後、彼女とお父さんは、彼女のマンションの荷物の片付けに行き、終わるとまたテントに挨拶をして、帰って行きましたが、その帰り間際に彼女と、

「次に会えるのは、いつになるか分からない。もしかすると遠距離恋愛になる可能性もあるな。」

というようなことを話したと、記憶しています。


夕方になると、朝に来た親戚のおじさんが、また来てくれて、これまた多くの救援物資を置いて行ってくれました。


更に今日は、私の親友もテントを覗いてくれました。

「何かできることは?」

近所に住んでいる同級生なのですが、彼の家の周辺は被害は少なく、私の家を見舞ってくれました。

私は遠慮なく、

「トイレを貸して欲しい。」

と申し入れ、妹を連れて、彼の家でトイレを借りました。


変な話ですが、久しぶりにゆっくりと、安心してトイレができ、とても満足した記憶があります。

妹も同じことを言っておりました。

年頃の妹にとっては、私なんかよりもっと満足したと思います。


被災4日目、多くの方に支えられて、辛いはずの避難生活の中でも、それなりの水準の生活レベルを保つことができるようになりました。

この日の夜、私はキャンプ用ツーバーナーで久しぶりにお湯を沸かしました。

当時、カセットコンロの火力の出力は弱く、冬ということもあり、キャンプ用のバーナーでないとお湯を沸かせませんでした。

テントを持っている人さえ少ないのに、キャンプ用バーナーを持っている人は、この公園でもごくごく僅かです。

燃料が少ししか無かったので、これまでの避難生活では使っていませんでしたが、この日燃料を差し入れして頂き、暖かいカップヌードルを食べることができました。

避難生活から3日間で、冷たいものしか口にしていなかった私たち家族は、このカップヌードルで心から温まることができました。

その日、私はひたすらお湯を沸かす役目でした。

まわりの避難してきている人たちにも、お湯を配るためです。

誰もが皆、温かさに飢えていました。

コーヒー、味噌汁、温かいお茶、カップ麺・・・と、皆、思い思いに寒さを忘れることができた夜となりました。

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2008/01/31(Thu) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
死があふれる街・・・被災3日目

地震のあった13年前、当時、デジカメはありません。

もちろん携帯電話もごく一部の方しか、所有していませんし、もちろん現在のようなカメラ機能もありません。

街の被害状況や、避難生活の状況を容易に撮影はできませんでした。

もちろん、ブログというものも存在してなかったし、個人がネット上でその状況を伝えるには、一部のホームページ作成技術をもった方しかいませんでした。


3日目頃になってくると、多くのマスコミや、ボランティアに紛れたヤジウマがやってきて、そこら中にカメラを向けていました。

当時、ギリギリの生活をしていた私は、このカメラを向けている人たちに吐き気を覚えていました。

壊れた家、燃えた家、倒壊した駅、横倒しの高速道路、裂けた地面、うねる道路・・・

こんなに多くの人が悲しみ、苦しんでいるサマをカメラにおさめて楽しいか?

本気でそう思っていました。

それくらい、日々が必死でした。


しかし、今ではその記録を残してくれた人には感謝しています。

また私自身も映像での記録を残したかった、、、そう思っています。

自宅の被害、近所の家の様子、公園でのテント生活、避難所の様子・・・

今、ブログでこうして、その頃の街の様子を振り返り、言葉で伝えようとしていますが、言葉ではなかなか伝わりません。

地震や大規模災害にあったことのない方に、

「死があふれている街」

と言っても想像できないと思います。

私の家族は運よく、全員が無事でした。

しかし、近所では多くの方が亡くなりました。

親しい友人の家族も・・・

亡くなられた方の倒壊した家の前には、花や線香が置いてあります。

また残された家族は、亡くなった家族の居る倒壊した家を離れられず、その側で避難生活をしています。

明らかに避難所よりも劣悪な環境ですが、それでも亡くなった家族の側にいたい。

悲しみ、苦しみ、絶望が街中を包んでおり、誰一人として笑顔はなく、もちろん笑い声など聞こえてきません。

大げさではなく、これが「死があふれた街」のナマの声なのです。

薄れ行く記憶の中で、映像に残したかった。。。

このブログにその時の写真でもあれば、もっと強く伝えられたどだろうし、読みやすくできたと思います。


死がそこらじゅうに点在する状況が長く続くと、人間の感覚はおかしくなってきます。

そして、自分も死ぬんじゃないか?こんなに多くの人が死んでるんだから、自分もいつ死んでもおかしくない、という恐怖の連鎖が発生します。

特に希望を無くした老人の方は、「もう死んでもいい」「こんなことなら死にたい」と口にしてしまいます。

あちこちで、こんな人間の心理が渦巻くと、街全体がどうなるか?

それが、「死があふれた街」なのです。


被災後、3日目、この頃から、”恐怖の連鎖”はエスカレートすることになりました。

避難所で亡くなる人の噂。

避難所に入れず、車で寝泊りしている人が突然死する噂。

もっと大きな地震が来る噂。

私たちの街の海辺に並ぶ、神戸製鋼のコンビナートにガス漏れが発生していて、大爆発が起きる噂。

道が途切れ、橋が落ち、通れる道は大渋滞で、神戸からは脱出できないという噂。

などなど。。。

人々の不安は、更なる不安をあおり、恐怖と絶望が街全体を覆っていました。

2008/01/30(Wed) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
先が見えない・・・被災3日目

3日目になってくると、避難生活の慣れと、救援物資の充実とともに、身体(疲労)と精神(ストレス)の疲れが出てきました。

初日、2日目と
必死に動き回ってきたのが、一息ついたことで、ドッと疲れが吹き出してきた感じです。

特に親父の疲労の色が濃くなってきました。

私は当時22歳。

体はバリバリに元気です。

社会人2年目ですが、遊びほうけており、まだまだ学生時代の甘い考えを引きずったままの精神年齢。

親元に暮らし、気が向いたら彼女の家に転がり込むような生活。

そんな男でしたから、この避難生活による精神的ストレスも、当時少なかったように思います。

しかし、親父は明らかに疲れていました。

肉体的というより、精神的な疲れが親父を襲っていました。


避難生活では、日中は基本的に破壊された家の片付けをしていたのですが、家は余震でいつ倒壊するか分からない状態。

まして、両隣の家は私の実家にもたれかかるように倒れています。

ですから、親父と兄貴と私の3人は、一人で家には近づかないように決めていたのです。

家の中に入るときは万一に備えて、必ずペアで動き、一人が中に入っても、もう一人は外で待機すると約束していました。

しかし、この日、親父の姿が見えなかったので探していると、一人で家の片付けをしていたのです。

兄と私が、親父を呼び戻し、せっかく助かった命なのに、勝手なことをしないように言いました。

「悪かった・・・今度からやめとくわ。」

と元気のない声で、詫びました。


一度、公園のテントに戻り、今後について話合いました。

親父が疲れているのは無理もありません。

まったく、この先が見えないのです。

一家の大黒柱として、家族をいつまでも、この寒い公園のテントで寝泊りさせるわけには行きません。

その当時はそんなことを考えたこともありませんが、妻、子供の居る現在の私には、今となってはその時の親父の心労を図ることができます。


親父は中学を出てすぐに、滋賀県の田舎から神戸の都会にひとりで出てきて働き、若くして店を持ち、商売で身を立てました。

そして、裸一貫から、立派な店と家を20代で建てたのです。

商売が順調にいき、30代でローンは完済、その後リフォームを繰り返し、常に家に手を入れていました。

そう、家が好きだったようです。(私もその血を受け継いだと思います)

朝から晩まで休みなしに働き続けた、その血と汗の結晶である家が、一瞬にして破壊されたのです。

我に返ると、気がおかしくなっても変ではないでしょう。

私も2年前に、親父と同じように自分で家を建てました。

思いが深く入り込んだこの家が、地震で倒壊してしまうようなことがあれば、私は這い上がれるでしょうか


今、自分の家を持って、はじめて、このときの親父の気持ちを察することができます。

その当時は、そんなことは考えられるはずもなく、親父にエラそうに「勝手に一人で家に行ったらアカン!」と責めていました。


この先、どうするのか?

滋賀の田舎に家族全員で行こうか?

家族全員仕事を持っていたので、それじゃ仕事に通えない。

マンションを借りるにしても、ウチは中型の犬が2匹もいる。

そんなところがうまく見つかるだろうか?


3日目、4日目くらいになってくると、公園の避難生活をしていた人たちは序々に減り始めてきます。

今後の見通しが見えない不安が、強いストレスとなって、両親を苦しめていました。

2008/01/29(Tue) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
避難生活最大の苦痛・・・被災3日目

避難生活3日目を迎えます。

3日目になると、食料以外にも、毛布や衣類などの救援物資が届くようになりました。

また、自衛隊の協力により、
仮設のテントなども立ち始めたのは、確かこの頃だったと思います。


身の安全の確保に奔走した2日間でしたが、3日目になり、最低限の衣食住が確保できてくると、目の前の現実を直視しなければならず、ツラいことが多くなってきました。

中でも大きな問題は、トイレのことでした。

今日は少しタブーな、しかし現実にあった話をします。

食事前には読まないで下さい。


トイレの問題は避難生活で最大の苦痛でした。

まず、電気・ガス・水道のすべてのライフラインは当然のことながら断たれています。

避難所(小学校)には多くのトイレがありますが、「水道が止まっている=水が流れない」ということは、どういう状態になっているかは、容易に想像できると思います。

いや、想像はできるかも知れませんが、おそらく経験していない人の想像の数倍、悲惨な状態でした。

私たち男性は、「小」はそれこそ、どこでもできますし、避難生活中はそうしました。

問題は「大」です。

何度か小学校のトイレに行こうとしましたが、とても用を足せる状態ではなく、諦めました。

これも男なら、夜の闇に紛れて、公園の茂みにコッソリしたり、近くを流れる川で用を足せました。

しかし、女性はそうは行きません。

非常事態ですから、女性でも夜になれば、先ほどのように公園の茂みでコトを済ませました。

私の母や、妹もそうしました。

ただ、女性の場合、「小」でもそこら中でするわけには行きませんから、日中のトイレの問題がありました。

いつもいつも夜更けまで、我慢などできるはずはありません。

やむなく、小学校のトイレに入らなくてはいけません。

母も妹も何度かは必要に迫られ、入りました。

トイレから出て、避難しているテントに帰ってきたときは、半分泣きそうな顔をしており、「二度と入りたくない」とツラい現実に直面しました。



簡易トイレが避難所周辺にでき始めたのは、もっともっと後の方でした。

悲惨なトイレの状況は、我が家だけでなく、避難生活をする誰しもが直面した最もツラい現実。

もう少し後になりますが、この問題の改善に努力した人たちが居ます。

言葉では言い表せないほど悲惨な状況になっていたトイレを掃除し、次からトイレに入る人には、自分で流せるように、水を持って入ることをルール化してくれたのです。

流すための水も用意されていました。

このボランティアには感服するほかはありません。

他のどのボランティアよりも、キツく、ツラい取り組みだったはずです。

この人たちのおかげで、トイレは決して衛生的とは言えないまでも、「二度と入りたくない」と涙を浮かべるようなことはなくなりました。


しかし、この感謝はまだまだ後の話。

私たち家族は、比較的被害の少なかった地区の友人・知人の家に行って、トイレを貸してもらうことで、何とかこの問題を凌いでいました。

何度もトイレを借りた友人の家も、決して水道が戻ってきている訳ではありませんので、トイレを借りた後は、近くの湧き水を汲みに行き、トイレのタンクに水を足しておくことが、暗黙のル-ルになりました。

あのとき、何度もトイレを借りた親友には、本当に感謝しております。

トイレが満足にできない現実を前にすると、人はトイレをしないために、食べなくなります。

私もトイレが嫌でなるべく食べ物を口にするのを控えました。

男の私ですらそうなのですから、女性陣はもっと口にしません。

また女性は「小」もできませんから、水分も取るのを控える。

不衛生であることは、間接的にこんなことも影響し、健康状態を害する可能性があるのです。


「衣食住排」、私の考える人間の最も低位欲求です。

震災は、「衣食住」だけでなく、「排出」も人間の最も根源的な欲求であることを思い知りました。

2008/01/28(Mon) | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
救援物資届く・・・被災2日目
兄貴が帰ってきた2日目の夕方くらいから、少しづつ救援物資が届くようになってきました。

パン、おにぎり、水などの食料です。

避難所の小学校に救援物資が来たという情報で、家族は順番に並びに行きました。

戦後の配給の様子を、よくテレビや教科書で見たことがありましたが、まさにその光景です。


震災当日から、何かと行列に並ぶことが多くなりました。

救援物資、公衆電話、車の移動、先になりますが電車、などなど。

今のご時世、行列などがあると、必ずどこかでケンカが起きるのをよく見ます。

「俺が先に並んでいただろ!」

「私が先だっ」

「これは俺のだ!」

「いや、先に手をつけたのは私だっ」

ってな具合に。

しかし、この震災で見かけた行列には、不思議とケンカは見ませんでした。

配っている人に対しても、「ありがとう」と感謝を忘れず、バカみたいに「早くしろ、待ってるんだぞ」みたいなヤツは居ませんでした。

皆、整然と並び、ひとつづつと言われれば、ちゃんとルールを守っていました。


救援物資、本当にありがたいと思いました。

我が家は、冷蔵庫から少しは食料が出せたので、なんとかここまで凌いでいましたが、そんな比較的恵まれた状態の私がそう思ったくらいですから、ほとんどの人は感謝感激だったに違いありません。

文句を言ったり、ケンカをするなんてもってのほか。そんなことはありえない状況でした。

震災が多くの人に、「家族の絆」や「ご近所の大切さ」「助け合い」を育んだと言われるのは、こういった非常事態において人間は助け合うという、素晴らしい能力を持った生き物であることを証明しました。


しかし、このような人間同士の助け合い精神は、3日目以降から、少しづつ変化していきます。

人間が本能的に助け合いできるようになるのは、いわゆる「マズローの欲求段階説」の、最も低位の欲求(衣食住といった生きる上での根源的欲求)が満たされないときに限られるようです。

3日目以降、少しづつ衣食住の最低限の欲求が満たされてくると、次々と求めるものが大きくなり、それは同時にケンカなどの原因になってきたのでした。


余震は数は減りましたが、2日目の夜でも時折、大きく揺れました。

テントの中とはいえ地面に寝ていますから、あの下から突き上げるような揺れには、敏感に反応し、夜の闇がその恐怖を一段と大きくしていました。

この嫌というほどカラダに染み付けられた地震の突き上げは、今でも大型車の通行で感じ取ったり、それまでの気にしていなかったような振動に、過剰反応を示すカラダに私を変えてしまっております。


ただガムシャラに身の安全を確保することと、衣食住といった人間の最低限の要求を満たす行動に奔走した2日間でした。

が、しかしこのあと3日目からは、ツラい現実を直視せざるを得ず、不自由な生活からくるストレスの始まりで、本当の避難生活と呼ばれる日々に入っていくのでした。
2008/01/27(Sun) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
兄来る・・・被災2日目

少しづつ、大地震の現実とテントでの避難生活を受け入れられるようになってきたことと、彼女のお父さんが娘を心配する様子を見たことで、私の家族がいろんなところに心配をかけていることに気付いてきました。

まずは、滋賀県に住む、祖父、祖母に、家族全員が無事であることを伝えなければ。

そして、大事な家族がもう一人。

一人神戸を離れ、名古屋に住む兄貴にも、無事を伝える必要があります。

他にも心配をかけているだろう親戚はいますが、まずは兄と祖父祖母に連絡をしなければ。


時間を見つけては、公衆電話に並びに行きました。

公衆電話の行列は初日にも増して多い上に、昨日と違って待ち時間での話相手(彼女)もおらず、退屈でしたが、こればかりは仕方ありません。(写真は借り物でイメージです)




やっと順番がまわってきて、電話ができました。

滋賀の祖父祖母には電話が通じました。

二人ともやはり、とても心配していました。

年老いた体で現地に駆けつけることもできず、眠れない夜を過ごしたそうです。

大喜びしてくれました。電話を頑張って並んだ甲斐がありました。


名古屋の兄貴には電話が通じません。

やはりかける地域やタイミングによっては、まったく通じませんでした。

何度もトライしましたが、ダメでした。

そんなとき、彼女がマンションのドアにメモを貼り付けて、お父さんに会うことに成功したことを思い出し、実家のドアにもメッセージを貼り付けました。

兄貴が探しに来るかも知れないからです。


その方法は的を得ていました。

兄貴はやはり名古屋から家族を探しに帰ってきてたのです。

そして、家のドアのメッセージを見て、公園にやってきました。

両親と兄妹と私の5人家族は久しぶりに勢揃いしたのでした。

気の強い兄貴でしたが、さすがに心配はピークだったらしく、目は赤くしていました。

名古屋は被害はほとんどなく、普通に仕事に出ていたようですが、さすがにテレビで神戸の惨状を見て、すぐに飛んできたとのこと。

彼女のお父さんと一緒で、車はまったく動かず、途中で乗り捨てて歩いてきたようです。


(写真は借り物でイメージです。当時は写真のような、いわゆる震災ファッションで、幹線道路の歩道を歩いている人がたくさん居ました。


彼女が実家に帰って、なんだか寂しい気持ちになっていた私でしたが、ひとつ年上の兄貴が、この非常時に帰ってきてくれたことは、とても心強く、嬉しく感じました。

親父や母も少し元気になったように思います。

兄貴は来るなり、家に行き、ガンガン荷物を運び出しました。

行動派の兄貴は、いつ潰れるか分からない家の奥の方まで、平気で入っていきます。

揺れを経験してないから、怖くないのかも知れませんが、相変わらず度胸が据わっています。

昨日に引き続き、私と兄貴と親父で家の整理をやりました。

出せないと思っていた車も出しました。

ホンネットが大きく凹んでいる以外は、奇跡的に無事でした。

エンジンもかかり、車は公園まで乗って、テントの横に置いておくことにしました。

慎重で臆病な私ではできなかったことも、兄貴のおかげで出来ました。

その日は兄貴もテントに泊まりました。

2008/01/26(Sat) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
彼女が実家へ帰ります・・・被災2日目

被災から2日目、彼女はやっとお父さんに会うことができました。

気の強い彼女が涙を流しています。

私の想像をはるかに超える不安を感じていたんだと分かりました。


はじめて見る彼女のお父さん。

彼氏として、こんな異常事態下で初めての挨拶をするのは、なんだかツラい気持ちでしたが仕方ありません。

彼女が父親にこれまでの避難の経緯を説明し、私と私の家族を、父親に紹介しました。

彼女の父は、

「この度はこんな状況の中で、娘の面倒を見て頂き、本当にありがとうございます。」

と深々と頭を下げました。

「こちらこそ、勝手なことをして申し訳ありません。」

と私の父。


聞くと、彼女のお父さんは、やはり昨日も神戸に、彼女を探しに来ていました。

車が大渋滞で、神戸の街に近づけず、途中で車を乗り捨てて、歩いてきたんだとか。

マンションに行っても彼女はおらず、片っ端から避難所を探し回ったそうです。

彼女の特徴を伝えて、避難所の人に見なかったか聞いてまわったそうです。

暗くなるまで探し歩いて、灯りのない街でこれ以上探すのは困難と、その日は後ろ髪を引かれる思いで、一旦帰宅しました。

そして今日、またも車は途中まで、徒歩で神戸入り。

早朝から再度、避難所をまわり、念のためと思い、彼女のマンションに寄ったところ、ドアのメモを見つけ、この公園にたどり着いたのでした。


ニュースではずっと、神戸の街の惨劇は映し出され、心配ばかりが膨んだと言います。

しかし、神戸の街に実際に入ると、その心配はさらに増加し、昨日はやはり眠れなかったようです。

ただ、彼女のマンションは倒壊していないこと、部屋にカギがかかって、中に人の気配がないこと、被災直後、彼女の母親と一瞬であったが電話が通じたことから、「生きている」ということは確信できていたと言っていました。

寒空で凍えているんじゃないか?

食べるものがなくて、お腹を空かせているんじゃないか?

知り合いが少なく、不安にしているんじゃないか?

たとえ生きていると分かっていても、親というものは、顔を見るまでは安心などできるはずもなく、そんな愛娘の心配ばかりしていたようです。


申し訳ない・・・もっと早くメモを貼って伝えておくべきだった。しかも私は、大事な娘さんの部屋に、親の目を盗んで勝手に上がり込んでいるような、つまらない男。

そんな懺悔の念にうつむいていたところ、彼女のお父さんが私に声をかけました。

「地震直後の、娘が一番不安な時に助けてくれてありがとう。テントがあったから寒さを凌げたと聞いて本当に安心したよ。本当に感謝します。」

そういって、私に何かの足しにしてくれと、こっそり一万円札を握らせました。

私は驚いて、

「今はお金は必要ありません。」

と断りましたが、つき返しても受け取りません。

本当にそのときは困り果てましたが、後に彼女のお父さんが、私のお義父さんになって、付き合いが長くなってから思いましたが、不器用なお義父さんの言葉に表し切れない感謝の表現だったんだなと思いました。


2日目の昼、彼女はテントの荷物をまとめ、お父さんと実家へ帰って行きました。

その日は、彼女が実家に帰れて良かったと思う反面、私はなんだか寂しい気持ちになったのと、これから先、私の家族はどうなるのだろうという不安で、たまらなく怖くなったことを記憶しています。

2008/01/25(Fri) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
彼女の避難生活・・・被災2日目

地震から1日経った朝を迎えました。

私たちの家族は、この公園でのテント生活を1週間過ごすのですが、2日目以降の出来事については、それが2日目だったのか、3日目だったのか、はっきりとした記憶は残っておりません。

ただ、ひとつひとつの出来事については、鮮明に覚えていますので、時系列ではないかも知れませんが、出来事を記していきます。


2日目には大切なことがありました。

初日の話ではあまり触れませんでしたが、この避難生活には私の家族以外に、私の彼女も一緒に過ごしていました。

なぜ一緒に居るのかは、これまでの話を読んでいただきたいのですが、当時22歳(私と同じ)で大学生だった彼女。

親元を離れ、一人暮らしのマンションで被災しました。

彼女の母親から震災直後に電話があり、彼女と少し話はできているものの、両親の心配は尋常ではないはずです。

もちろん、彼女も不安です。

彼氏の家族と、この異常事態の中で一緒に過ごすことは、大きな緊張とストレスがあったに違いありません。


2日目の朝、彼女と一緒に、彼女のマンションへ戻りました。

マンションは戸建に比べるとやはり損傷は少ないものの、多発する余震や、これまでの異常事態での心理状況では、建物の中に入ることは恐怖そのものでした。

彼女も着替えや、自分の避難に必要な資材を、マンションから取り出し、公園のテントへ持っていきます。

そして最後に、マンションのドアにメモを貼り付けました。

「大和公園で、○○さんの家族とテントで避難しています。△△より」

大和公園の簡単な地図も書きました。

彼女の両親はきっと血眼になって、我が娘を探しているはずです。

本来なら昨日の時点でこのメモを貼っておかないとダメだったんですが、自分たちのことで必死で、気が回りませんでした。

余談ですが、当時、半同棲中だった私たちは、彼女のマンションに私の私物が多くあったため、この時に自分の実家へ引き上げました。

彼女の親が来て、マンションの片付けを始めるときに、男物の服が出てきたら、いくら非常事態とは言え、マズいもんですから。。。


当時は携帯電話はありましたが、まったく普及していませんでした。

業務用に使っている人や、ごく一部の人が持っていたくらいでしょうか。

個人の家の電話はどこも通じず、皆、公衆電話に並びました。

公衆電話も通じるところと、通じないところがあり、通じるところでも、タイミングやかける先によっては通じないことがありました。

周辺の人から、あそこの公衆電話がよくつながるといった情報を入手して、その公衆電話に並びました。

ものすごい行列でした。

寒い中、1時間待ちは当たり前といった状態です。(写真は借り物です)




彼女も両親と連絡をとるため、公衆電話に並びましたが、初日の昨日は一度も通じませんでした。

2日目も並んで挑戦しますが通じません。


そんな2日目の確かお昼ごろだったと思います。

避難テントの周辺で、彼女が叫びます。

「あっ、お父さん!!」

父親を見つけた彼女は、これまでこらえていた涙を流しながら、その大きな男の人の胸に飛び込んで行きました。

2008/01/24(Thu) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
長くつらい一日の終わり・・・被災当日
全壊した家から避難生活に必要な生活資材を、ひたすら出して行きました。

実家は大きな損傷を受けましたが、完全な倒壊を免れたおかげで、多くの家財を取り出すことができました。

完全に倒壊した家や、火災で焼失してしまった家では、生活資材を取り出すことができません。

まさに着の身着のままでの避難生活を余儀なくされてしまうのです。

そんな人はいくらでもいました。

特に初日は、まったく救援物資などもありませんので、ツラい目にあった方が多くいました。

我が家は自分たちのことでまだ精一杯ながらも、恵まれた避難物資があったこともあり、近所の知り合いの方に毛布を分けたり、服をあげたりしました。

私の当時のお気に入りだった、ユナイテッドアローズのウィンドブレーカーを知らぬ間に母が、誰かにあげたと聞いて、少し落ち込んでしまいましたが、そんなことよりやることが山ほどありました。

テントを持っていたこと、家のものを持ち出せたこと、

この2つの不幸中の幸いは、明らかに周りの多くの人よりも恵まれた環境を確保できたのでした。


暗くなる前に、なるべく多くの物資をテントに運び込むため、必死で運びます。

次の余震でいつ実家が倒壊するかもしれないので、一刻も早く物資を取り出したいという心理もありました。

家に入るときは、親父と二人ペアで行きました。

入口付近で私が待機し、親父が家の奥へ入る役でした。

亀裂だらけの家に入るのは、勇気が要りました。

親父に万が一のことがあれば、私が救出できるよう、スタンバっていました。

度重なる余震のたびに、親父は家の中から走って出てきました。

入口で待つのも、大きな恐怖でした。

私の実家よりもボロボロに壊れ、大きく傾いている隣の家が、いつ潰れるか分からない状況だったからです。


そんなことの繰り返しで、無我夢中の被災当日は夜を迎えました。

夕食は何を食べたのだろう?

すでに記憶はありません。

ただただ寒く、身を寄せ合って、テントで横になり、布団が重いのと、脚を伸ばせないので、体が痛かったことを覚えています。

余震は夜も絶え間なく続き、誰一人としてまともな睡眠などとれるはずはありませんでした。

まして、極寒の公園の夜、地面に布団をひき、頭まで毛布や布団をかぶって寝ている多くの人は、眠ることなどできなかったはずです。

「何で俺は、こんなとこでキャンプしてるんだ?これって夢だろ??」

あまりにも現実離れした一日を経験したため、目を閉じても、そんなことばかり考え、目を開ければ暖かい部屋で寝ていた自分に戻れる気がしていました。

残念ながら、何度目を閉じても、開けても、それは現実でした。

夜の闇は昼間よりもいっそう地震への恐怖を掻き立て、私は一刻も早く朝が来ることを願いました。

これは皆同じ気持ちだったようで、テントの外では、焚き火をして暖をとり、夜を明かすものや、大きな音でラジオのニュースに耳を傾けるもの、発電機を回し、投光器を焚いて停電の街を照らすものなど、一日中ざわめきのある夜だったことを覚えています。
2008/01/23(Wed) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
避難生活のはじまり・・・被災当日

安全な広い場所へ・・・

そう思って避難した駅前の広場。

しかし余震が続く中、駅前ビルの倒壊があるかもしれないとの危険を感じ、立ち去ることにしました。

「安全な場所なんてあるのか・・・」

やはり広域避難場所である小学校に行こう、そう決めて、再び家族全員で移動を始めました。


小学校はやはり避難してきた人で溢れかえっていました。

すでに校舎の中は、我が家の避難スペースを確保できる場所はありません。

とても寒い日です。

少しでも寒さを凌ぐため、校舎の中は廊下や階段にまで人が溢れていました。

これまでほとんどの建物が倒壊している惨状を見てきた私は、建物の中に入るのが怖く、小学校に隣接する公園にテントを張ることにしました。

どっちにしても我が家は犬が2匹もいたので、校舎の中には入りにくいなとは思っていたのですが。


公園にも多くの人が避難してきていました。

駅前の広場と違い、周りに建物はなく、余震がきても危険は少ないと感じたことや、避難所(小学校)が隣なので、人が多く、情報が得やすいという点でも、ここで避難スペースを確保しようと決めました。

私は慣れた手つきで、テントを設営しました。

我が家の他にも、テントを張っている人はいましたが、ほとんどの人は、公園の土(地面)に直接布団をひいて、頭まで毛布をかぶり、寒さを凌いでおりました。

今はアウトドアブームもあって、テントの価格も下がり、多くの家では簡単なファミリーテントくらいは持っていると思いますが、その当時は現在ほどアウトドアが盛んではなく、テントも結構高価なものでした。

ですから、被災直後の避難生活においては、テントがあるとないとでは、大きな差がありました。(とくに寒さ対策という点で)

このとき持っていたテントは、比較的大型のロッジ型テントで5人用です。(当時は、コンパクトなドーム型はまだ少なかった。)

両親と妹と私と彼女、合計5人が、なんとか横になれる大きさです。

脚を伸ばして寝ることはできませんが、誰もそんなことは言いません。

このテントがあっただけで、とても贅沢で、本当に大きな差がありましたから。


テントが設営し終わると、まず一旦実家に戻り、避難生活に必要なものを取り出しに向かいました。

まずは、布団や毛布をありったけ、ひっぱり出しました。

そして、衣類も。

そうです。まずは寒さをいかにして凌ぐかです。

真冬の公園。

寒さ対策をしなければ、いくら都会の神戸でも耐えられません。

服を着込めるだけ着込み、布団や毛布はすべてテントの中に敷き詰めました。


寒さ対策を完了したら、次は食料の確保です。

冷蔵庫から調理なしで食べられる食材を取り出し、避難場所の公園へせっせと運びました。

たしかもうお昼をまわっていたと思うのですが、5時45分の被災から、朝食はおろか、昼も食べてません。

あまりの異常事態に、お腹がすかないのです。

昼過ぎになって、一息つこうと、家族全員で最初の食事をとったのは、今でも鮮明に覚えています。

冷たい食パンにマーガリンを塗って食べました。

あと、ハムを切ってマヨネーズをつけて食べたのも覚えています。

飲み物は牛乳を少し飲みました。

いずれも凍えるような寒さの中で、冷たい冷たい食事をとりました。

もちろん2匹の犬も、同じものを食べました。


かるい食事のあと、引き続き避難生活の必需品確保に動きます。

自然と役割分担ができました。

男手の私と親父は、潰れた家から生活資材を引き出し、テントへ運ぶ役目。

女手の母と私の彼女は、テント内、周辺の生活基盤づくり。

妹は犬の世話と情報収集。

こんな感じでした。

2008/01/22(Tue) | トラックバック(0) | コメント(8) | page top↑
どこに避難する?・・・被災当日
「みんな無事やで。」

近所のおじさんのこの一言で、私は大きな緊張から解き放たれました。


さっそく家の裏に回ると、わずかに残された路地の隙間から出てくる、見慣れた顔がありました。

親父、発見です。


大声で呼びかけると、振り向き、

「ケガないんか?大丈夫か?彼女は?」

と私たち二人のことを真っ先に心配してくれました。

そして、大声で

「おぉーい、お母さん、○○無事やで!」

と家の奥に叫びました。

奥のほうから、聞きなれた声が返ってくるとともに、母が出てきました。

涙を浮かべ、お互いの無事を喜びました。

「妹は?」

私が聞くと、

「広い道のとこで、犬と待機してる。無事やで。」


家族みんな無事。

この震災で、つらい避難生活や、仮住まい生活を経験しましたが、こんな記録を残せるのは、「家族が無事だったから」です。

誰かが亡くなったりしていたら、このブログは一生書けないでしょう。

まさに不幸中の幸いです。


とは言いながら、親父の顔の半分にできた大きなアザが気になります。

「それ、どうしたん?」

「タンスが倒れてきて、顔打ったんや。痛いけど問題ないと思う。」

(震災から2週間後、親父は顔面骨折の診断を受けました。)


これからどうする?

とにかく寒い。

今日は家では寝られない。こんなとこ危なくて、近寄れない。

こんなとき何をどうすればいいんだろう?

親父と話し、

「余震でいつ建物が崩れるか分からない。とにかく広いところに避難しよう。」


両親と、私と彼女、妹と犬2匹。

家族全員で、JR六甲道駅前の広場に向かいました。

地域の避難指定場所は小学校でしたが、近所の人が、すでに人で溢れていると言ってましたので、駅前の広場に向かうことにしたのです。

私の趣味のキャンプ道具の中からテントをひっぱり出し、広場でテントを設営、そこにしばらく避難することにしました。

家を離れ、街を歩くたびに、その悲惨な惨状が次々と目に入り、家族全員が口を紡ぎます。

駅に行くまでに、近所の人と会うたび、母は涙を浮かべ、互いの家族の状況を話していました。

よく知っている近所の家や、友達の家の多くが、ぺちゃんこに潰れています。

「この家の家族はどうなっているんだ・・・?」

気になりながらも、まずは、家族の安全を確保するため、一目散に駅に向かいました。

六甲道駅前につくと、JR神戸線の高架線路が落ちており、駅が完全に潰れています。




(神戸市のHPから写真をお借りしました。)


駅前のビルの窓ガラスはほとんど割れ落ち、路上にガラスの破片が散乱しています。

すでに駅前広場には、何組かの家族が避難に来ていましたが、私のようにテントを持っている人は少なく、寒さを凌ぐため、布団を地面にじかにひいたり、毛布にくるまったりしていました。


私の家族は、テントを張る場所を確保しました。

そしてテントを設営しようと、準備を始めたそのとき、これまでで一番大きな余震が襲ったのです。

そこに居た多くのの人たちが、悲鳴を上げました。

さらに、駅前のビルからガラスの破片が落ち、割れる音が聞こえました。

「ダメだ、ここは安全じゃない・・・」
2008/01/21(Mon) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
ふるえる足・・・被災当日
大地震・・・その現実を受け止め理解できてくると、私の頭に、ある恐ろしい現実が思い浮かんだのでした。

彼女のマンションから歩いて5分のところにある、私の実家。

どうなったんだ・・・


そこには両親と妹、愛犬2匹が暮らしています。

もちろん、私も普段の生活の拠点は実家です。

社会人になっても遊びまわり、親の忠告など聞かず、週末は彼女のマンションに転がり込んでるドラ息子でした。

こんなときに自分の家に居なかった私は、とんでもない親不孝ものだと自分を責めました。

「ちょっと、実家見てくる。お前もひとりじゃ危ないから、一緒に行こう。」

彼女にそう言って、マンションを戸締りし、貴重品を持って、足早に実家へ向かいました。


実家へ向かう、その道のりで私の不安はますます大きくなって行きます。

とにかく、どこに行っても家が全部潰れているのです。

「絶対死者が出ている」

そう思いました。

私の実家も木造2階建ての家です。

決して新しくはありません。

このそこらじゅうで潰れている家と同じような家です。

まさか・・・

最悪の結果ばかりが頭をよぎります。


彼女と二人で実家へ向かっていましたが、私は彼女に話しかける余裕が段々と無くなっていきます。

私の半分泣きそうな顔に、彼女も私に話かけることができません。

それは彼女自身も私と同じことを考えていたからです。


途中で、幼馴染の連れを見かけました。

彼の家はマンションです。倒壊は免れています。

そんな彼が大声で駆け寄ってきました。

「おぉーい、大丈夫やったか?この辺、みんな生き埋めなっとんねん。助けるの手伝ってや!」

彼は警察官を目指したほどの責任感の持ち主。

悲壮な顔で私に応援を求めてきました。

分かってる、助けたいけど、俺、まだ親の顔見てないんや・・・

「ごめん、ウチもかなりヤバいねん。あとで・・・」

後ろめたい気持ちになりながらも、そのことが更に実家への不安をあおり、もう最悪の展開が私の頭にインプットされてしまいました。


実家が近づいてくると、その周辺では火の手もあがっており、ますますこの世とは思えない惨状になってきました。








(写真は彼女のマンションのあった神戸市灘区琵琶町付近の映像です。神戸市のHPからお借りしました。写真を見て、今さらながらも恐怖を感じます。)


恐ろしい現実を見るのが不安で不安で、足がふるえ、唇がふるえ、体が前に進まなくまりました。

そして、彼女に背中を押されるように、実家と目と鼻の先まで来ました。


実家は、親は、妹は、犬は・・・?

家が見えません。

というか、実家の前の狭い路地に、多くの家が重なりあっていて、路地をふさいでいるので、近づけません。

「この中、この奥はどうなってるんだ・・・」

路地の入り口付近でオロオロしました。

そして、とっさに目の前にある電柱にしがみつき、家が見えるとこまで登りました。


家は・・・


形はありました。

下(1階)の方はよく分かりませんが、上(2階)はちゃんとあります。

つまりぺしゃんこにはなっていません。

少し不安は緩みましたが、家族はどこに居るのか?

大声で呼びかけました。

「おぉーい、オヤジ。おぉーい!!」

電柱に登って、叫びまくる。こんなとき恥ずかしさなんて、これっぽっちもありません。


大声で叫んでると、よく知ってる近所のおっちゃんが下から声をかけてくれました。

「おぉ~、○○さんとこの息子やな。みんな無事やで。大丈夫や。お父さん、あんたのこと気にしとるで。いま家の裏から、家の中のもん取り出してる最中やわ。」

「そ、そうですか。ありがとうございます。」

涙が浮かびました。
2008/01/19(Sat) | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
長い長い一日の夜明け・・・被災当日

夜が明けてきました。

部屋の中は足の踏み場もないほど、ムチャクチャになっています。

ようやく私と彼女は、これが”地震”であることに気づき始めました。


夜明けとともに、外から色んな声が聞こえてきます。

どの声も常軌を逸した叫び声ばかり・・・「大丈夫か?」「外に出ろっ!!」

寒い寒い朝、私たち二人は服を着込んで、外の様子を確認しに行くことにしました。


マンションから一歩外に出ました。

私たち二人の目に信じられないような光景が飛び込んできます。


マンションの前の家が前のめりに倒れています。

それもひとつやふたつの家ではありません。

全部です。

彼女のワンルームマンションだけが、ポツンと建っています。

マンションも壁が落ち、廃墟のようです。

電柱も倒れ、壊れた家が道路をふさいでいます。

道路が大きく波打ち、アスファルトに大きな亀裂が入っています。

映画やテレビで見た、戦争で爆撃されたような街になっています。

「えぇ~、何これ・・・」

二人の口からは言葉が出ません。どんな会話を交わしたかも覚えていません。

ただただ、「信じられない・・・」

そんな気持ちだけが駆け巡り、「これは夢か?」と本当に何度も何度も思いました。

「これは夢か?」こんな気持ちとはまさに、このことを言うのだろうと感じました。


着の身着のままの人が、多く道に出ています。

呆然とする私たち二人に、まったく知らない近所の人が話しかけてきました。

その人はラジオを片手に、

「地震やで。死者6人やって。」

と、私たち二人に初めての情報をもたらしてくれました。

ほとんどの人が私たちと同じで呆然とし、動きが取れないでいました。

地震と分かったところで、何をしたらいいのか、さっぱり分からないのです。

彼女と同じマンションに住んでいた女の子が、マンションの入り口で、私たちと同じように不安でオロオロしています。

彼女がその子に話かけました。

「どうする?マンションの大家さんに連絡しようか?」

そんな会話をしていたように記憶しています。


色んな叫び声があちこちから聞こえ、まさに街が騒然としています。

この叫び声・・・人が本能的に発する大声は、それが緊急事態であることの証ですから、自分自身の恐怖心がさらに強くなります。

私は、震災から13年を経ても、子供の奇声や、大人の喧嘩などで大声を聞くと、異常にドキっとしてしまいます。このときの影響であることは明白でしょう・・・


こんな叫び声の飛び交う中で、私たち二人は徐々に現実を理解し始めました。

そして、私は恐ろしいことにふと気が付きます。

彼女のマンションから徒歩5分のところにある、私の実家はどうなった?

おやじは?

おかんは?

妹は?

愛犬2匹は?


周囲の戸建住宅は軒並み倒壊している。

私の家は・・・

2008/01/17(Thu) | トラックバック(0) | コメント(10) | page top↑
そのとき私は・・・被災当日

1995年1月17日(火)

3連休が終わり、その日から仕事が始まる朝でした。

私は例のごとく、ひとり暮らしの彼女(現在の妻)のマンションに転がりこんでおり、そこから出勤の予定。

昨日は神戸三宮のおしゃれなレストランで食事をし、彼女との楽しいデートを満喫。(と、妻の記憶を辿って前日の様子を思い出す・・・)

震災後のことは、13年を経た今でも思い出しますが、震災前のことはあまり思い出せない。それくらい震災の後が強烈であったことは言うまでもありません。


5時46分、私たちはまだ深い眠りの中。

そのときがやってきます。

寝ぼけながらも、ハッキリと体に染み付いている、あの「ゴォォォォォー」という音。下から突き上げてくるような嫌な響きです・・・

「ド・ド・ドンっ」

と、大きく縦(垂直方向)に揺さぶられます。

建物ごと持ち上げられて、落とされる感じが数回にわたり、繰り返されたように記憶しています。

その後、今度は激しく横(水平方向)の揺れ。

長い長い揺れです。

どうなってしまうのか・・・と思うくらい長く感じました。


私の彼女は狭いワンルームマンションで、ベッドから布団を下ろし、床に二人並んで寝ていました。

長い揺れの間、私は彼女を無理矢理ベッドの下に押し込もうとしました。

正義感が強いように思われるかも知れませんが、私自身が恐怖におののき、自分もベッドの下に入りたいので、彼女ごと自分の体を押し込んでいるといった方が正確な事実です。

自分では気づいてませんでしたが、本能的にかなり大きな叫び声を上げてしまっていたようです。(彼女にしてみれば、何より、私の叫び声が一番怖かったとか・・・)


揺れがおさまりました。

辺りはまだ真っ暗です。もちろん電気はつきません。

まず、何が起きたのか?事態を把握するのに少し時間が必要でした。

私は「飛行機の墜落?」と、とっさに思いました。

地震であるということは、まったく考えませんでした。


騒然とする私と彼女に、最もツラい声があちこちから聞こえて来ます。

悲鳴と叫び声・・・

「大丈夫か、おいっ、」「どこにおる?」

それら周囲、ご近所の叫び声、悲鳴が、ただ事ではないことに気づかせてくれました。


彼女が、「どうしよう?」と聞いてきましたが、何も考えられない。

かっこ悪いが、どうしたらいいのか分からない。

少々パニック気味だったかも知れません。

だんだんと暗闇に目が慣れてくるとともに、少しづつ夜が明けてきて、部屋の状況が見えてきました。

そのときはあまりの驚きとショックで何とも思ってなかったのですが、今思えば、二人の寝ていた枕元のすぐそばに転がっていた、テレビや電子レンジ・・・

二人とも足の踏み場もない部屋の中で、キズひとつなく無事だったことは不幸中の幸いでした。

「うわっ、これヤバいで!部屋ムチャクチャやん。壁も一部落ちとるし・・・、なんやねん、これ・・・・・」

「会社どうする?」と彼女。

「どうしよっかな?ちょっと様子見て考えるわ。ムチャクチャやし、休ましてもらいたいケドな。」

彼女は当時まだ学生。

私は会社に入って2年目の新人で、まだ真面目だった頃でした。

マンションの外の惨劇を見ていない私は、このとき無謀にも、まだ会社に行くつもりでいました。


そのとき電話が鳴ります。

なんとも思っていませんでしたが、震災直後は電話が繋がりました。

彼女の実家のお母さんからです。

彼女が出て、10秒も話さないうちに勝手に切れました。

そしてその後、二度と電話はかけることもできず、かかってくることもなくなりました。

ただひとつ、娘と離れて暮らす実家の両親に娘の無事が伝わったことは、少しの安心と、余計な心配をかけることになってしまいました。

その後、彼女は2日間、両親と会えず、その間の両親の心配たるや尋常ではなかったはずです。

テレビで惨劇を見た両親の気持ちは、当事者の私たちは分かっておりませんでした。


夜が白けてきました。

寒い朝でした。

できるだけ服を着込み、二人で外の様子を見に行こうと彼女に言いました。


長い長い一日がこれから始まろうとしていました。

2008/01/17(Thu) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
はじめに

震災から13年の月日を経て、いつかは記録に残したい、書きたいと思っていた「震災手記」を、ブログというツールを使って、やっと書き始めることができました。

日々薄れていく記憶の中で、最近、日本全国で大きな地震が起こるたび、また毎年1月17日を迎えるたびに思い出しては、そのことを考えていました。


なんでもそうですが、大きな災害、災難は、自分が実際にその立場にならないと分かりません。

人間って、なぜか「自分だけは大丈夫」と思っています。

そう、他人事です。

私もそうでした。

まさか神戸に地震が来るなんて、これっぽっちも思ってませんし、その備えなどあるはずもありませんでした。


私は神戸市灘区という場所で被災しました。

JR六甲道という駅の付近で、震度7の激震地区でした。

駅の高架橋が落ち、JR東海道線で最後まで復旧が遅れたことで、少し有名になった駅です。

火災も発生し、街が消滅しました。

大げさではありません。

その証拠に現在の私の実家の周辺は、震災復興再開発により完全に違う街へと変貌しました。

もともと商店街や市場の並ぶ下町でしたが、今はご覧のとおり、ビルディングジャングルです。

近所の人はほとんど街を離れ、現在住んでいる人は、新しく震災後に来た人ばかり。つまり、震災を知らない人たちばかりです。

ほとんどの家は建て替えられ、家や街並みは区画整理により整然としています。

小学校、中学校もすべて建て替えられました。

もはや震災前のような、私の故郷としての面影は一切ありません。

地震はそれほど、すべてを破壊、消滅してくれました。


我が家は自宅が全壊し、テント暮らしと、3年間の仮住まい生活を経験しました。

これから少しずつ、記憶を辿りながら、その記録を記していこうと思います。

2008/01/17(Thu) | トラックバック(1) | コメント(4) | page top↑
もくじ

メディアが取り上げない、震災のナマの声。
約30分の短編ドキュメンタリーです。
 時間が許す限り、どうぞ最後まで読んでみて下さい。
自分だけは大丈夫・・・・・でしょうか?




第1部 これが本当の被災直後です


「はじめに」

「そのとき私は・・・被災当日」
「長い長い一日の夜明け・・・被災当日」
「ふるえる足・・・被災当日」
「どこに避難する?・・・被災当日」


第2部 公園でテントをはって避難しました


「避難生活のはじまり・・・被災当日」
「長くつらい一日の終わり・・・被災当日」
「彼女の避難生活・・・被災2日目」
「彼女が実家へ帰ります・・・被災2日目」
「兄来る・・・被災2日目」
「救援物資届く・・・被災2日目」
「避難生活最大の苦難・・・被災3日目」
「先が見えない・・・被災3日目」
「死があふれる街・・・被災3日目」
「支えてくれる人たち・・・被災4日目」
「住めない家のローン・・・被災5日目」
「お前がいいと思うまで・・・被災5日目」
「どこに行っても地獄・・・被災5日目」
「決断を迫るとき・・・被災6日目」


第3部 神戸を脱出します(~独身寮~社宅へ)


「神戸脱出・・・被災7日目」
「独身寮でのもてなし・・・被災7日目」
「あたたかい布団で・・・被災7日目」
「感謝につつまれた朝・・・被災8日目」
「もう戻れないと分かったとき・・・被災8~9日目」
「いつまでこんな生活を・・・被災10日目」
「朗報入る。が、・・・被災11日目」
「新たな拠点・・・被災12~14日目」


第4部 復興に向けて


「心のキズ」
「復興の光と影」
「記録に残してくれた人たちに感謝」
「すべてのご支援下さった方に、ありがとうございました」

「あとがき」






2008/01/17(Thu) | トラックバック(-) | コメント(-) | page top↑
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