スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) | トラックバック(-) | コメント(-) | page top↑
あとがき

このブログを書き始めたのは、今年(2008年)の「1月17日」。

私はこの約1ケ月の間、他の震災にまつわるサイトの閲覧も含めて、どっぷりと震災の思い出に浸りました。

そのため、13年前の出来事が昨日のことのように思い出され、自分自身の中でも”風化”しつつあった、地震(地震だけでなく、全ての天災、人災、事故、事件)への危機意識を、再び持つようになりました。

今年の「1・17」は、そんな震災に対する思いを再認識したこともあってか、この大災害の”風化”を強く感じざるを得ませんでした。

神戸や阪神間では、多くの被災地で追悼の式典が行われ、これをキッカケに多くの人が、また危機意識を再燃させました。

しかし、私の職場である大阪では、「1・17」を口にする人は全く居ませんでした。

一部の神戸方面から通勤してくる同僚と、少しその話題になりましたが、それ以外の人にとっては、すでに過去の出来事(年表上の事件)になってしまっているようでした。

大阪は神戸の隣街。

神戸の惨状はよく知っていたと思いますが、あれほどの大災害であっても、やはり被災、避難生活を経験しなかった人にとっては、その”風化”は早いものです。

大阪ですら、そうなのですから、東京ではもう「1・17」と言うキーワードすら知らない人がほとんではないでしょうか。

私自身でさえ、その意識が薄らいでいたのですから、やむ得ないことです。




私にとって、「阪神淡路大震災」は一生忘れることのできない未曾有の大災害です。

しかしそれは、私にとって「未曾有」であって、他の人には普通よりも「少し大きな事件」程度かも知れません。

何度かこれまでも書きましたが、私もそれまでは、日本の、世界の、あちこちで起きる災害に対して、「大きな事件」程度と思っていました。

そして「1・17」のような、その「事件」の起きた日など、当然覚えてはいませんでした。

それどころか、あれから何年というようなドキュメンタリーを見て、

「あれ、まだやってんの?」

と、災害の後の復興にどれだけの時間を要するかなど考えることもなく、典型的な”他人事”として捉えていました。

マスコミが取り上げるのは、建造物が破壊された様子や、街が燃える様子、閉じ込められた人の救出劇などです。

私はこの被災体験で痛感したのは、震災直後の被害による苦しみよりも、避難生活での苦しみや、復興までの苦しみの方が何十倍もツラかったのです。
(実際に、被災直後の避難生活はしっかりと、客観的にブログを綴れましたが、その後のツラい避難生活はあまり深く触れることができませんでした。)

しかしこの復興までの道のりは、マスコミにとってあまり興味をそそる話題ではなく、そこにスポットがあたることはありません。

ですから被災者以外は、次第にテレビに映されなくなった「震災」を忘れ、

「あれはもう終わったこと」

としてインプットされていったのです。


この阪神淡路大震災も、どんどん”風化”していくことは百も承知しております。

私はこのブログを多くの方に読んでいただき、その”風化”を止めようなどと、大それたことは考えていません。

自分の貴重な体験を「記録」したことによって、これから自分自身の記憶の”風化”を少しでも遅らせることと、自分の子供に、

「お父さんとお母さんは、こんなふうにして大地震を生き延びたんだ。」

と言えることが目的です。

自分の体験を後世に伝えることの重要さを感じたのは、この震災の後の、ある大災害がきっかけです。


死者22万人以上、阪神淡路大震災の4000倍のエネルギーと言われた、あの「スマトラ島沖地震」での話です。


この地域も日本同様、100年から150年周期で大地震が発生しており、そのたびに大津波が発生していたそうです。

とある部族では、過去の大津波の話を先祖代々伝えてきており、

「地震が来たら、高台に登れ」

という教訓が、部族全員に周知されていました。

そんなある年のクリスマスの翌日、2004年12月26日、あの大地震が襲いました。

その時、多くの人が興味本位で、海を見に行ったのに対し、この部族は家族まとまって、一目散に裏山の高台まで走ったそうです。

どちらが命を落とし、どちらが助かったかは言うまでもありません。


もしも、家族はなればなれの時に大地震が来て、家に居れなくなった場合、どこで待ち合わせようか?

携帯電話はつかえません。災害伝言ダイヤルも結局は電話です。

こういったことを家族と話し会い、万が一に備えることが、被災経験からの私の実感です。


(写真は神戸市のHPからお借りしました。避難所の仮設電話に殺到し、悲壮な顔で家族の安否確認を伝える被災者の様子です。家族がばらばらになって連絡が取れない・・・それは想像を絶する辛さです。
万が一のとき、家族がどこかで会える場所を決めておきましょう。我が家では、念の為に2箇所決めています。)



そして、自分自身がそうだったように、人間誰もが当事者になるまでは、

「私だけは大丈夫」

そう思っていることがいかに恐ろしいことか、子供たちに伝えよう、そう奮起しました。

いつかくるその時に、命を落とす人と、生き延びる人との分かれ目は、こんなところにあるのではないかと思っています。

このブログを読んで下さった方が、

「自分にも来るかもしれない。」

少しでもそう思って下されば、阪神淡路、新潟をはじめとした、日本各地で起こった大地震によって亡くなられた方が報われることになるのではと考えます。


人ひとり死ぬことがどんなにツラいことか、それまでの人生で、命の大切さを学んできたつもりでしたが、この震災で6,400人余りの人が同時に命を失うという現実を前にして
、自分の命の儚さを痛感しました。

ちょっと思想がかっていると思われるかも知れませんが、私には何かやらなければならないことがあって、生かされたんだと思っています。

それを確かめるため、見つけるために、この震災で生き延びた命を大切にし、意味のある人生を築きたいと思います。



2008年2月   リックルハング





コメントしづらいブログだったと思いますが、最後まで読んで頂いて、ご意見・ご感想をコメントくだされば、嬉しく思います。

スポンサーサイト
2008/02/23(Sat) | トラックバック(1) | コメント(69) | page top↑
すべてのご支援下さった方に、ありがとうございました
私の被災体験を綴った「震災手記」は、本当にあった話です。

そのリアリティをお伝えするために、最も適したものを見つけました。

昨日に引き続き、ネット上を探していて、画面に釘付けになった映像です。

この映像は被災当日~2日目の、まさに身の安全を確保することに奔走していたときの、私の体験そのものを残してくれていました。


工場のガスタンク亀裂によるガス爆発の避難勧告は、私の避難していた公園にも噂が聞こえていました。

情報がはっきり伝わらず、いろんな噂に人々が右往左往する様子。

毛布にくるまって、地面に座ったり、歩いたりする人の様子。

そういえば、映像を見て思い出しましたが、スキーウェアを着ている人は多く居ましたね。

また、最後の方に出てきた、公園の焚き火のまわりに毛布にくるまって夜を明かす様子。

常に聞こえる、救急車、消防車など緊急車両のサイレンなど。。。

見ていて、目頭が熱くなりました。



もうひとつ、避難生活でのなまなましい映像がありました。


車で生活する人。

上空をひっきりなしに飛ぶヘリコプターの音。

顔面を骨折したウチの親父と同じような格好をして、インタビューに答えるおばさん。

建物の中に怖くて入れないということ。寒くても外がいい・・・

水がないので、トイレが悲惨な状況になっている。

何も食べてないけど、食べる気がしない。

もっと大きな地震が来るという噂。。。

まさに、私が経験した避難生活そのままの映像でした。

見終わって、今の生活が本当に幸せに思えました。



最後まで「震災手記」にお付き合い頂きまして、ありがとうございます。

あの日から、もう13年も経過したんですね。

この手記を書き始めてからは、昨日のように記憶が蘇りましたので、13年の月日を忘れてしまいました。

結局私たち家族は、

テント生活を7日間、

私の会社の独身寮を間借りして、5日間、

兄の会社の社宅に移って、3年間、

の避難生活を経験しました。

家族は全員無事でしたが、避難生活中は精神的に病むことがありました。

愛犬2匹は、避難生活中に1匹は死に、1匹は失明しました。

ツライ思い出しかありませんので、この震災で何かを学んだとかは、あまり感じません。

この体験が、今の人生にどう生きているかも自分では分かりません。



震災ではもっと悲惨な目にあった人は山ほど居ます。

ご家族や親しい人がお亡くなりになられた方にとっては、このブログは気分を害するものかも知れません。

ただ私自身もそうですが、13年という月日を経て、風化しつつある震災の教訓を再度思い起こし、これから起こるかもしれない東海・東南海地震に備えるキッカケになれば、少しは役に立ったんじゃないかと思います。



最後に、

避難生活の間、お世話になった多くの親族、友人、会社関係、ご近所の方々に深く感謝申し上げます
とともに、

この阪神淡路大震災でお亡くなりになられた
6,400名超の方々、その後の避難生活で
お亡くなりになられた方々に、
心からお悔やみ申し上げます。
















(神戸ルミナリエ。このイベントが震災追悼であることを、私たちは忘れてはいけない・・・)


最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

このノンフィクションブログは、最後ひとつだけ「あとがき」を記して完結したいと思います。

2008/02/22(Fri) | トラックバック(0) | コメント(9) | page top↑
記録に残してくれた人たちに感謝

私はこれまで、震災について多くを語ってきませんでした。

鬱病との闘いがあまりにもツラかったので、震災経験がそれを思い出させるような気がして、話題にすることを避けてきたのです。

このブログも最初の頃は比較的客観的に執筆できましたが、愛犬の話以降は、なんとなく

「こんなことブログに書いて何になる?」

と自問自答しました。

更新の頻度が落ちたのはそのためです。

ブログは私の中では”楽しむもの”。

「こんな過ぎ去った過去の、ツラかったことばかり書いてどうするんだ・・・」

そんな葛藤があり、もうこのブログは閉じようと思ったのですが、応援してくれる方がいてくれることや、見られてるという責任も感じ、何とかここまで来ました。


しかしここ数日は、ここまで震災手記を綴ってきて、改めて当時を振り返ることができ、本当に良かったと思えてきました。

特にこのブログは、他の誰かに見てもらうのは本来の趣旨ではなくて、自分自身の記憶を「記録」に残すことが目的でしたから、最後まで書ききったことは自分自身の心の成長を実感します。

また、震災の画像を集めるのに、多くの震災関連のサイトを見てきました。

これまで、自ら地震の映像を見ることなど、ほとんど無かったのですが、このブログを機に多くの映像が残っていることを知り、記憶の掘り起こしの一助になりました。

さらに自分の知らない地震の一面も知るキッカケになりました。

震災後しばらくは自分のことで精一杯でしたし、直後は新聞もニュースも見れませんでしたから、ネットでそれらの映像を観て、もう少し広い視野で震災を振り返ることができました。

記憶の残った写真をお借りします。




(いろいろネット上を検索しましたが、この2枚の写真が、私の実家に最も近い場所の写真でした。実家から徒歩20秒のところです。)


こっちはもっと近い、徒歩10秒くらいの場所です。ただし、震災から7ケ月が経った後の写真です。



商店街はアケードだけが残り、店は全滅です。

「八幡市場」の看板が残っています。

すでに柵で囲われてしまっていますが、ここで私の両親は商売をしていました。

とても懐かしい写真です。


また、こんな映像を見つけました。

震災当日、こうして未曾有の大災害の第一報は伝えられていたんですね。



もうひとつは夜7時のニュース。



あるアナウンサーのとても印象的なリポートが心に沁みました。

「100万ドルの夜景と言われた神戸の夜景が、悲しい夜景になっています・・・」



今思うと、この震災を写真や映像など「記録」に残してくれている人が居たことを、本当に感謝しています。

私の人生の中で、間違いなく、大きな大きな1ページであった阪神淡路大震災。

この経験を、こうして自分で記録に残せたことに非常に満足しています。
2008/02/21(Thu) | トラックバック(0) | コメント(10) | page top↑
復興の光と影

被災から3年後、神戸市灘区の全壊した家のあった場所に、新しい家が建ちました。

両親は二度と地震で倒壊しないことを願い、重量鉄骨の家を再建しました。

たった3年で、元の家に戻れた・・・とても幸せなことだとは思いますが、長い長い3年でした。

私の22歳~25歳の元気いっぱいのはずの時期は、暗く、傷心しきった人生の1ページになりました。

生まれ育った六甲道の街に再び帰ってきたとき、私たち家族の「避難生活」は終わりを告げました。


一番最初の記事でも書きましたが、戻ってきた我が故郷「六甲道」はあまりにも変貌しました。

この六甲道周辺は、木造家屋の倒壊率が9割。

神戸の被災地の中でも、最もひどい被災地のひとつに挙げられた地域でした。

私の住んでいた桜口町、彼女(今の妻)の住んでいた琵琶町を含む、周辺の8つの町だけで死者200人超。

六甲道駅は、阪神間の大動脈であるJR東海道本線の中で、最も復旧の遅かった駅となり、NHKの人気番組「プロジェクトX」でも取り上げられました。
(プロジェクトX 第161回 2005年1月11日放送 「鉄道分断 突貫作戦 奇跡の74日間」~阪神・淡路大震災~)


(写真は借り物です。JR六甲道駅開通の日の様子。テレビの取材車がずらりと並んでいます。当初、2年はかかると言われた復旧を、3ケ月弱で復旧させたことから、奇跡の突貫工事と呼ばれました。)


この我が故郷「六甲道」は、被害の甚大であった他の地域と同じように、大規模な区画整理、再開発の対象地域となりました。

商店街、市場が多く、どちらかと言えば下町情緒の濃い町並みでしたが、我が家が帰ってきた六甲道は、高層ビル、マンションが建ち並ぶ、ビルディングジャングルでした。


(写真は神戸市からの借り物です。六甲道駅南地区 震災復興第二種市街地再開発事業 全体写真)

大阪、神戸の商業圏に近く、住宅地として人気のこの地域に、大量のマンションが供給され、多くの人が集まってきました。

そう、ほとんどの人は、震災後にこの地域に来た人たちです。

ご近所さんは、ほとんど震災の前とは変わりました。

母校も取り壊され、建替えられました。


(写真は借り物です。私の母校:成徳小学校の旧校舎です。避難所として活躍し、避難所の役目を終えた後、建替えられました。
「戦争と震災をのりこえ、ごくろうさま旧校舎、68年間ありがとう」と垂れ幕が出ています。)

急激な人口増加に伴い、今は校舎が足りなくなり、震災の時のように、運動場に仮設住宅ならぬ、仮設校舎を建てられています。

今、この学校に通っている生徒は当然ですが、その親もこの小学校が当時どんな様子だったか?この街はどんな街の状況だったのか?知ってる人はごく僅かだと思います。

でも、それは仕方ありません。

いつまでも震災(過去)を見ていても仕方ありませんから。

ただ私は、自分の故郷があまりにも変貌し、自分の育ってきた環境がほとんど何も残っていない現実に寂しさを覚えました。

そして、あれほど戻りたいと願った六甲道への愛着も薄れてしまったのです。


ただ、実家が再建され、ここに戻れたことはとても嬉しいことでした。

と同時に、自分の両親の経済力に感心しました。

そして、こうした不慮の災害が自分の身に降りかかったときのために、備える必要があると痛切に感じました。

被災からの3年間を通じて、私自身が”家”に強い執着を持ち、どうしてもリスクに備えるような生き方をすることになったのは言うまでもありません。


私は実家再建の翌年、地震発生の瞬間を一緒に経験し、テントでの避難生活を過ごした、あの彼女と結婚しました。

彼女は私が鬱病に苦しむ間、私の唯一の心の支えになってくれました。

鬱病を早期に克服できたのは、彼女のおかげだと今でも信じて疑いません。

結婚と同時に、この六甲道の実家を離れ、神戸市東灘区本山に中古戸建を購入し、新たな拠点を築きました。

(その後の話は興味があれば、画面左にリンクを張っている「33歳年収600万円のサラリーマンが芦屋に家を建てるまで」をご覧下さい。このブログは2011年11月に書籍化され、全国の書店で発売中です。)

やはり、自分の家を持ちたかったのです。

家は生活の拠点です。

これがないときのツラさは想像を絶します。経験者としてこれは断言できます。

2008/02/19(Tue) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
心のキズ

多くの人に助けられ、神戸市北区の兄の会社の社宅に、生活の拠点を構え、新たな生活をスタートできました。

ここからは日常生活としては、何不自由ない暮らしを手に入れることができました。

そして避難生活というよりは、復興に向けた待機生活に入りました。

しかしこの後、ここでの生活で我が家を襲うのは、この頃から深刻になり始める震災の二次的な後遺症・・・「心のキズ」です。


結局このあと、我が家は約3年間、この社宅のお世話になりました。

何の不自由もない、きれいなマンションで何を贅沢なことを・・・

私もそう思います。

いまだに小学校の避難所や、自衛隊の設営したテント、仮設住宅で暮らす人が多い中、私たち家族は恵まれた避難生活だと思います。

しかし、先の見えない不安が長く続くと、いくら強い人間でも、その精神力は弱ってきます。

友人、知人のいない全く知らない街での生活。

途切れ途切れの交通機関を乗り継ぐ、長距離通勤。

気になる実家周辺の様子。

ここはあくまで仮住まい。

早く六甲道に帰りたい・・・見えない住宅再建のメド。

その資金。。。

いつまでの我慢・・・それが分かれば、自分を奮い立たせることはできますが、

「いつになったら帰れるのか・・・?」

これがハッキリしないのが一番ツラいことでした。

そして、時間が経てば経つほど、そのイラ立ちはつのり、ストレスが溜まりました。



私は震災後、結局、2週間仕事を休みました。

そしてその後、地獄のような2時間超の通勤を3年間経験しました。

震災の疎開により神戸市北区に人口が集中し、通勤電車はいつも超満員でした。

神戸の便利な街に住み慣れていた私は、この通勤経験によって、

「通勤の苦しみはもう二度と味わいたくない。自分で家を買うときは、どんなに小さい家でも、絶対便利なとこにする。」

と心に誓いました。


そしてこの震災の年の春、私は転勤になり入社3年目ながら、新規事業の立ち上げに抜擢されました。

今までの仕事のやり方や人間関係が180℃変わりました。

新規事業のため、頼れる人はほとんどおらず、次々に発生する問題は自分で解決するしかありません。

夜中も、休日も、その事業に精通した人間が居ないため、トラブル発生の電話が絶えませんでした。

同じチームの人は、一人は辞め、もう一人はストレスから持病のアトピー性皮膚炎がひどくなり、長期入院しました。

ますます、私の肩にのしかかる重圧は重くなりましたが、震災でお世話になった会社への恩返しもあり、がむしゃらに働きました。

「神戸の人はみんな大変だ。俺なんか、マシなほうだ。こんなんで挫けてたらバチが当たる。」

毎日が必死でした。

とにかく働きました。

親父は実家の再建のため、朝暗いうちから仕事に行き、私が残業して帰っても、まだ帰ってきていませんでした。

母も慣れない土地でパートに出ました。

高校生だった妹は、私より遠い距離の通学を余儀なくされていました。

そんな家族には、私の弱音など吐けるはずもありませんでした。



しかし・・・

先の見えない仮住まいでのストレス、長距離通勤でのストレス、過酷な仕事の量・プレッシャーによるストレス、会社への恩返しという責任感によるストレス。。。

これらの重複は、確実に私のカラダを蝕みました。

震災からちょうど1年が経つ頃、私のカラダは食事を受け付けなくなりました。

そして、睡眠が取れなくなりました。

自律神経がやられ、鬱病と診断されました。

23歳の若さにして、精神安定剤が手放せない男になってしまいました。

電車に乗れなくなる「パニック障害」も引き起こし、いつまでもプラットホームに立ち尽くす状態が何度もありました。

リフレッシュするため会社を休み、彼女とスキー旅行に行きました。

スキーをしているときは楽しく遊んでいたのですが、旅行から帰ってきたとき、神戸の街のキズ跡を見て、嘔吐を繰り返しました。


この3年のあいだ、親父も持病の高血圧が悪化、母も自律神経失調症になるなど、家族全員が強いストレスで体調を崩しました。

震災は色んなことを経験させてくれましたし、学ぶことも多かったのですが、私は鬱病との戦いがあまりにも苦しかったので、ツラい思い出しか残っておりません。

二度とあんな経験はしたくありません。

しかし、こんなことをブログで多くの人の前で書けるようになったなんて、自分自身の精神面の成長を感じます。

当時は地震の話をすることさえ、嫌でしたから・・・





誰もが苦しかったあの頃・・・この当時、神戸の街のあちこちで、こんなフレーズが勇気をくれました。






(写真は借り物です。)


「がんばろう、KOBE」、そう口ずさんで、みんなが頑張りました。

そして多くの人に支えられ、私も鬱病を克服できました。

2008/02/16(Sat) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
新たな拠点・・・被災12~14日目

被災から12日目。

我が家は生活の拠点を求めて、神戸市北区の兄貴の会社の社宅へ、明日引越しすることになりました。

結局私自身は、この寮に来た初日と最終日の2日間だけしか、ここで寝ることはありませんでしたが、家族としては5日間お世話になりました。

この日は大忙しです。

引越しの段取り。

寮でお世話になった方々へのお礼と挨拶。

愛犬を親戚の家へ預けに。

親父は引越し用のトラックを借りに。

明日は兄貴も名古屋から駆けつけての、震災後2回目の引越しです。


被災から13日目。引越しです。

この頃になると、神戸の慢性的な渋滞はだいぶ解消されており、比較的スムーズに兄の会社の社宅へ着きました。

同じ神戸でも六甲山の裏側の北区は、何事もなかったような平穏な街の様子でした。

そこは実家の周辺のマンション・ビル群とは違って、まだ畑や田んぼのある、ずいぶんと長閑な風景です。

そこに建つ比較的新しいきれいなマンション、これが一棟まるまる社宅と聞いて驚きました。

私の持つ社宅のイメージは、古くてダサく、4・5階建てくらいでエレベーターもなく、小さな団地のような感じ。

ところが、外観はスタイリッシュで敷地内に立体駐車場もあり、たしか9階建てで、もちろんエレベーターもある。

普通の分譲マンションそのものでした。

部屋を見て、これまた驚き。

最新の設備はもちろんのこと、その明るさ、眺望。

眺めそのものは田園風景ですので、さほど感激しないのですが、周りに高い建物がなく、その解放感は素晴らしいものがありました。

3LDKで、皆が集う広いLDKを囲むように、3部屋があり、両親の部屋、妹の部屋、私の部屋と、まさに申し分のない間取りでした。

母の第一声は、

「ええぇ~、いいの、こんな立派な部屋。。。」

久しぶりに”家”と呼べる空間を手にした我が家は、被災後はじめて、”安心”を手にしたような気がしました。


いろんな方に支えられ、応援して頂きながら、震災から13日を経て、生活の拠点をこの神戸市北区に構えることができました。

電気・ガス・水道・電話、すべてのライフラインがここでは繋がっており、買い物も普通にできました。

もちろん家族の中でのプライベートも保たれ、風呂、トイレも普段とまったく変わらぬ自由の中で使うことができました。

震災前の当たり前だった生活を取り戻せたのです。

実家の再建については、まだ当分は結論が出そうにありません。

実際に街の機能そのものが復興しないことには、個人の家の再建はできません。

ライフライン・交通の復旧、建物の解体・ガレキ処分などを考えると、気の遠くなるような時間が必要と感じていました。

「いつまでここに居させてもらえるんだろう?」

家族の誰もがそれを思っていました。

しかし、兄貴が、

「再建のメドが立つまで、いつまででも、何年でも居てもいいと確約をもらってる。しばらくはここでゆっくり考えよう。」

そう言いました。


その翌日は、食器類、調理器具や、衣類、布団をはじめとした、生活用品の調達にあけくれました。

ある程度、全壊した実家から取り出せたものもあるのですが、テント生活でボロボロになってしまったものが多く、買換えを要するものが多々ありました。

その日の夜は、震災後はじめて、久しぶりの母の手料理で家族揃っての夕食がとれました。

明日からは、私は2週間ぶりに仕事に行きます。

親父もそうします。


こうして神戸市北区を拠点とした、新たな避難生活が始まったのでした。

2008/02/15(Fri) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
朗報入る。が、・・・被災11日目

震災から11日目。

前の晩に親父に電話を入れた時に、明日神戸で合流して、車で一緒に茨木の会社の寮に戻る約束になっていました。

3日間お世話になった親友とそのご家族にお礼を言って、久しぶりに家族と合流しました。


会社の独身寮を間借りして4日。

寮の関係の方は、みんなよくしてくれて、何不自由ない生活ができているようでした。

しかし、母はポツリと言います。

「いつまでもお世話になる訳にはいかないね。。。」

そう思うのも当然です。

男ばかりの独身寮に、女性が寝泊りしていますから、寮を管理する側は、私の家族を中心に物事を進めます。

どう考えても、すごく気を使ってもらってます。

裏返せば、私たち家族のせいで、寮の方にとても迷惑がかかっています。

私はここに居なかったので、あまり気にしていませんでしたが、両親と妹にとっては、実際にここに居ると、その気の使われようがだんだんと申し訳なさに変わり、ツラくなっているようです。

母と妹は、寮にかける迷惑を少しでも解消したく、お風呂の時間はとってもらわなくてもいいと申し入れていました。(ある時間帯だけ我が家のためにお風呂を貸切にしてくれていた。)

そして、寮から歩いて15分くらいのところにある銭湯に毎日行ってたようです。

「確かに気を使うわな・・・」

久しぶりに家族にあって、そんな苦悩を聞きました。

「かと言って、他に行くところがあるわけでもないし・・・」


そんな我が家に、ある朗報が入ってきます。

名古屋に住む兄からの電話です。

「ウチの会社の社宅が一室空いてるから入ってもいいって、言ってくれてる。場所は神戸の北区。大阪の茨木よりは神戸に近くなるし、そっちに移らへんか?」

神戸市内でも北区は六甲山の裏側に位置し、震災でほとんど被害の出なかった地域です。

実家のある灘区まで確かに距離はあるけど、茨木よりは近い。

しかも社宅。

普通のマンションと同じ暮らしです。

願ってもない兄貴の申し入れに、家族は大喜びしました。


が、ひとつ問題がありました。

私の家族は、両親と妹と私・・・・・

以外にも犬が2匹います。

さすがに犬を連れて行くのは、NGでした。

室内犬なら、”こっそり”もあり得ましたが、ウチは中型犬。

隠れて飼うなんて、まず無理です。

これまで多くの人に助けられ、支援してもらい、ここまできましたが、ここもまた誰かの厄介になるしか方法はありませんでした。

両親は犬を預かってくれる親戚を探しました。


犬を預かる・・・

これはちょっと重たい話です。

自分が逆の立場、頼まれた方の立場なら、ちょっと焦ります。

いくら非常事態とは言え、他人のペットを預かるのは責任重大です。

まして、犬が嫌いな人も多い。

もう成犬です。

噛んだり、吠えたりする犬ではありませんが、すんなりと、なつくとは思えません。

なつかない、他人の犬を、いつまでという期限を決めることなく、預かってくれる人なんて居るんだろうか?

しかも2匹。。。

できれば2匹は一緒に居させてやりたいが、恐らく離れることになるだろう。


こんなことを頼めるのは一番近い、肉親になります。

滋賀県のおじいちゃんのところが家も広く、真っ先に思い浮かびましたが、高齢で足の悪いおじいさん、おばあさんに犬の世話をお願いするのは無理があります。

次に名古屋の兄貴。

マンション住まいなのでアウト。

両親は、最終的に1匹ずつをそれぞれ親戚にお願いすることにしました。



震災の被害者には、人間だけでなく多くのペットも多く含まれています。

実際に建物の下敷きになったり、建物に閉じ込められても救出は
人間優先のため、そのまま死んでしまったり、飼い主を失ったペットが処分されたり、悲しい話はよく聞きます。

我が家の犬2匹も震災の大きな被害者でした。


ここからはちょっとツライ話です。

今日は文字ばっかりで読みづらいかも知れませんが、あまり何日にも分けて話する気になれませんので、一気に書きます。


1匹は大きな庭があり、地震の影響のなかった親戚の家に預けられました。

しかし預けて2日後、

「やっぱり預かれない。」

と言ってきましたので、あわてて引き取りに行き、他の親戚にお願いすることになりました。



後を快く引き受けてくれたのは、テント生活の時にバイクで駆けつけてくれたあのおじさんです。

おじさんは自分の家でも1匹犬を飼っていて、ウチの犬を預かってもらうと、2匹の面倒を見なければいけないことになります。

おじさんの家は決して裕福ではなく、家もあまり広くありません。

しかし、おじさんの心は広く、大きい方でした。

嫌な顔せず引き受けてくれました。

おじさんは自分の犬と同じように、ウチの犬も手をかけてくれましたが、この犬は頭のいい犬で、そこが自分の本当の居場所でないことは分かっていました。

常におじさんの一家の顔色を見て、遠慮がちに暮らしていたそうです。

何度かその後も会いに行きましたが、私たちが帰るときのあの寂しそうな表情は今でも忘れることができません。

「連れて帰って欲しい・・・」

そんな目でこっちを見つめていました。

この犬は震災の1年後、おじさんの家で亡くなりました。

寿命としてはあまりにも早すぎる死でした。

犬にもおじさんにもツライ思いをさせてしまいました。


もう1匹の犬も、無理を言って預かってもらいました。

比較的大きな家で、庭もある家です。

この家は親父のもう一人の弟で、私もよく可愛がってもらったおじさんです。

しかしこのおじさんの家は、おばさんが障害を抱えており、おじさんが家事もこなすような家庭でした。

犬が1匹増えることは、明らかにおじさんの負担が増すことになります。

でもこのおじさんは快く引き受けてくれて、結局、家を再建するまでの3年間、この犬の面倒を見てくれました。

この犬もおじさんによく可愛がってもらいましたが、震災から1年後に急に光を失ないました。

原因不明ですが、ストレスによる失明だろうと獣医さんに診断されました。

3年後、再建された我が家に帰ってきましたが、その半年後に死にました。

この犬も寿命としては、早すぎる死でした。

2匹の犬を預かってくれた二人のおじさんとその家族には、感謝の気持ちでいっぱいです。

本当に助けてくれる身内が誰なのかもよく分かった出来事でした。


地震で全員無事だった我が家の中で、この2匹の犬だけが最大の被害者になりました。

たらい回しに会い、他人の家で気を使いながら暮らし、ストレスで早くに死を迎えなければならなかったことが、最も悲しいことでした。

私は犬が大好きです。

今も犬を飼っています。

災害の時、おきざりにされてしまう可能性が高いペット。

そのことを十分に考えて、ペットを飼う必要があるとつくづく思いました。

2008/02/13(Wed) | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
いつまでこんな生活を・・・被災10日目

中学の頃からの親友の家に、2連泊しました。

家族の拠点は大阪の茨木市にある私の会社の寮でしたが、やはり神戸から離れられません。

彼の家を拠点にして、いろんな情報収集に努めていました。


震災から10日目の今日、私は被災後はじめてお風呂に入ることができました。

初日以外は、会社の寮で、まだまともに生活していません。

そのため、風呂はまだ入ったことがなかったのです。

この日、親友の彼が、

「大阪は普通に生活してるらしいな。サウナ行ってみようか?」

と言い出したのです。

「ええけど、どうやって?」

電車は走ってないし、家の車は親父が茨木に乗って帰ったので、彼も私も車は持ってません。

「阪急が、西宮北口までは走ってるらしい。そこまで歩いて、そっから電車で梅田はどうや?」

「おおぉー、やってみようか。」

なんだか、少し冒険にも似た楽しみを持って、大阪へサウナを目指すことになりました。

震災以降、楽しみらしい楽しみはなく、暗いことばかり。

22歳の若かりし私は、楽しいことや、娯楽に飢えていました。


阪急電鉄 西宮北口駅までは、阪急神戸線の電車の線路を歩いていくことにしました。

線路はぐにゃぐにゃに曲がっていますが、家の倒壊や、道路陥没などで道が塞がれているという心配はありません。

多くの人が西宮北口を目指して、線路を歩いています。

日常生活の中で、堂々と線路の上を歩けることなんて、まずありません。

何だかスタンドバイミーのような気分で、半分楽しみながら歩いていました。


(写真はイメージです。神戸市のHPからお借りしました。)


思ったより遠く感じず、街の被害の様子を眺めながら、2時間ほどかけて西宮北口の駅に着きました。

ここから電車に乗って、阪急梅田駅を目指しました。

車窓からは、だんだんと震災の街から、普通の街へと変化していく様子がよく分かりました。


そして、梅田に着きました。

そこにはありふれた日常がありました。

大きな紙袋を持って、ショッピングを楽しむ人がいます。

映画館も開いていて、チケット売り場に人が並んでいます。

紀伊国屋前には相変わらず、待ち合わせをする人であふれています。

ゲームセンターでは昼間からUFOキャッチャーをする若者がいます。

パチンコ屋さんにも多く人があふれています。


彼と私は正直、言葉を失いました。

すぐ隣の街、大阪では、あまりにも普通の生活が営まれている。。。

ボロボロになった神戸との、あまりにも大きなこのギャップに、ショックを隠せませんでした。

ゲーセンで楽しんでいるこの若者たちは、恐らくテレビでしか神戸を知らない・・・

何も彼らは悪いことをしてるわけでもない、普通の生活をしてるだけなのに、この時の私の感情は正直イラ立っていました。

「神戸の人はみんな生きるか死ぬかの中で、必死で生活しているのに、お前らゲーセンかよ??」


今思うと人間って、勝手なものです。

これまで日本のあちこちで地震や、大きな災害、事故、事件があったとき、私はテレビを見て「ふ~ん、大変そうやな。」と感じるだけでした。

もちろん、そんな日も飲みに行ったり、合コンしたり、カラオケで楽しんだりしていました。


そう、彼らと同じです。

いざ、自分にその災害が降り落ちてくると、あたかも自分が最大の被害者かのように思ってしまう。

このブログのタイトルのとおり、誰も自分の身に災難が降り注ぐまでは、他人事なのです。

今だから言えますが、これは仕方ありません。

この当時の私は、それまで何もしてないくせに、一人前の被害者意識を持った、つまらない反応をしている若者でした。


梅田の繁華街にあるサウナに着きました。

久しぶりに入る湯船。

とんでもなく幸せな気分でした。

一番後回しになっていたお風呂。

震災から10日経って、ようやく入れました。

サウナに来ている人の中に、髭ぼーぼーのリュックサックのおじさんが居ました。

おそらく被災された方だと思います。

声をかける勇気はありませんでしたが、何だか同士のような気になりました。


サウナから出ると、少しゲーセンに行って遊びました。

久しぶりの娯楽。

しかし、心から楽しむことはできませんでした。

親友も一緒の気持ちだったらしく、早々に梅田を離れ、ボロボロの街「神戸」に帰ることにしました。

結局この日も家族と合流せず、彼の家に泊まりました。

会社の人は皆、今頃、必死になって働いている。。。

それは分かっていました。

しかも、家族は会社の寮のお世話になっている・・・

なのに私は何をするでもなく、神戸の街をウロウロしたり、梅田へ風呂入りに行ってみたり・・・・・

今思えば、バチあたりな行動だったかも知れません。

しかし、この頃の精神状態では、まず仕事はできてなかったと思います。

帰る家のない、拠点のない生活がこれほどまでに、虚しいものなのか?

毎日が夢遊病のような虚無感に包まれていました。

いつまでこんな生活を・・・・・

2008/02/12(Tue) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
もう戻れないと分かったとき・・・被災8~9日目
一旦生活の拠点を、大阪府茨木市の私の会社の寮に移した我が家ですが、翌朝、親父と二人で再び神戸入りしました。

そこで実家の家のドアに貼られている「赤札」を見て、言葉を失います。

赤札・・・全壊判定、倒壊の危険があるため立ち入り禁止であることを意味します。

家族の誰もが、完全な倒壊を免れた我が家は、補修によって住むことができると信じていただけに、そのショックは大きいものがありました。

まわりの戸建の家はすべて「赤札」でした。

確か新築して1年にも満たないご近所の家にも「赤札」が貼られています。

私の住んでいた街、JR六甲道周辺の8つの町では、木造家屋の7割以上が全壊し、死者は200人を超えています。

やはり我が家も全壊なのか・・・

特に親父のショックは大きかったと思います。

赤札ということは、今後の選択肢が限定されることになります。

建替えるか?別の家を新たに探すか?

いずれにしても、今すぐにでも生活の拠点が欲しい我が家にとっては、道のりの遠い選択肢でした。

「この家にはもう住めない。これから先どうするのか?」

これを真剣に考える必要が出てきました。


諦めきれない親父は翌日、この家を建ててくれた工務店に家を見てもらったようです。

結果は・・・・・

同じく、「修復不可」

木造軸組み構造の、その軸組み(柱や梁)に大きな損傷があり、基礎と建物の接続部にも大きな損傷があるとのことでした。

この頃の工務店さんは、震災特需でとても忙しく、つまらない修繕工事などよりも、建替えの方が扱う金額も大きくなることから、あまり修理を積極的に検討し、施工してくれる業者さんは居なかったと聞きます。

そのため、一級建築士などで構成された公的な機関が第三者の目で建物を調査し、「全壊」「半壊」「一部損壊」の判定を下していたのです。

この「全壊」「半壊」の判定を巡っては、見苦しいやりとりもありました。

「半壊」「一部損壊」と判定された家の主が、判定に不服だと言ってくるケースが多発したのです。

「ウチは家の中もボロボロで、どう見ても全壊だ。どこどこさんのところも同じくらいの被害で全壊と判定されている。」

と言ったもの。

理由は明らかです。義援金や様々な保障に対して、全壊判定の罹災証明が欲しいのです。

あとになって、確かに全壊判定の罹災証明があれば、仮設住宅や復興住宅の優先入居資格や、罹災融資など優遇されることがありました。

しかし、しっかりとその家に住んでいるのに、何が「全壊」なのか?

同じように「一部損壊」の人が、「半壊」の判定を欲しがる。

「瓦が何枚落ちたから、これは半壊だ。」

ですと。。。

こんな人を震災後、近所でも会社でも多く見ました。

どうでもいいですが、火事場ドロボウと同じだなと思いました。

我が家は逆です。

「半壊」で修復して、一刻も早くこの家に戻りたかった。

しかし、「全壊」だったんです。


その夜、親父は会社に泊まり、私は親友の家に泊まりました。

中学の頃からずっと仲のいい彼と一緒に居ると、嫌なことは忘れられました。

これから先のことについて、真剣に考えないといけないのですが、その時は現実逃避していました。

夜中まで酒を飲んでバカな話をしていました。。。


次の日は私は、彼の家への恩返しとして、裏山の湧き水からトイレや洗濯などに使う水の確保の手伝いをしました。

そして震災後はじめて、彼と二人でゆっくりと自分の生まれ育った街がどのように破壊されたのかを見て歩きました。

ボロボロになった神戸の街をひたすら歩きました。

どこもひどい惨状でしたが、自分の家の周辺が、このあたりでは最も被害が大きいことも確認できました。

その夜も、目に焼きついた悲しい現実と、「なぜウチのまわりだけが、あんなにヒドイんだ?」というやるせない気持ちで、気持ちが高ぶり、酒なしで眠ることはできませんでした。

その日も彼の家に泊めてもらいましたが、話相手が居てくれて本当に救われました。
2008/02/11(Mon) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
感謝につつまれた朝・・・被災8日目
寮で始めての朝を迎えました。

家族の誰もがよく眠れました。

二人部屋なので、ベッドは二つしかありませんでしたので、母と妹がベッドを使い、私と親父は床に布団をひいて寝たのですが、それでもテントとは全く違う、快眠を得ることができました。

朝の身支度をしていると、内線電話が鳴りました。

寮のおばさんからです。

「おはようございます。よく寝られましたか?もう皆さん起きられてたら、朝食を部屋に持っていきますけど、よろしいですか?」

「あっ、ハイ。ありがとうございます。。。」

そしてしばらくして、寮のおばさんが4人分の朝食を持って部屋に来てくれました。

ここはホテルか・・・、まるでルームサービス状態でした。

親切な寮の方々に感謝し、会社に感謝し、あたたかい朝食と、あたたかい部屋でゆっくりと食事を取れることにただひたすら感謝ばかりの朝でした。

朝食を食べると、洗面所で顔を洗える。

髭が剃れる。

女性ならメイクができる。

ハミガキができる。

トイレができる。

ひとつひとつの何気ない動作に、感謝と感動を覚えました。


今日はやることがあります。

私は震災後はじめて会社に向かいます。

今回、寮を手配して、段取りしてくれた営業所の所長をはじめとした、心配してくれた同僚に挨拶に行かなければなりません。

親父が一緒にお礼に行きたいと言っており、二人で会社に向かいました。

そして、会社に着くと、所長や直属の上司に挨拶しました。

昨日の夜、無事に寮についたこと、寮では手厚いもてなしを受けていることを報告し、心から感謝していますと、お礼を述べました。

「それはよかったです。しかし、まだこの先の見通しが立ちませんね。寮にはいつまで居てもらっても構いませんが、ご不便でしょう。社宅が空いていれば良かったのですが・・・震災の応援の関係で一気に埋まってしまったんです。」

「ありがとうございます。今日これから神戸に戻りまして、区役所の相談窓口に行く予定です。家の修復についても、工務店と打ち合わせしたいと思っています。それからある程度の見通しは立てられると思います。」

親父が所長に言いました。

「立来は、まだしばらく仕事に戻れる状況じゃないと思うので、仕事のことは気にしなくてもいい。自分で判断して出てこれると思ったら、出てくればいいから。」

と、前にも言ってくれたことを再度言って下さいました。

「現金は必要ですか?」

所長が親父に言います。

「会社から一時的に無利子で用立ては可能です。必要でしたら言って下さい。できる限りのことはします。」

「ありがとうございます。お金はまだ何とも言えませんが、今はとりたてて必要ではありません。」

ただひたすらお礼を述べて、今日は一旦会社を引き上げました。

帰り間際に上司から、

「お前、1月30日に保養所の申し込みしてるらしいけど、どうする?総務から確認がきとんや。キャンセルやな?」

そういえば、震災の前のこと、ほとんど覚えてませんでしたが、彼女と旅行に行く計画をしてて、岡山県の保養所を申し込んでいたことを思い出しました。

「すみません、キャンセルお願いします。」

「了解。ほんじゃ気ぃつけてな!」

会社を出て、また二人で神戸に向かいました。


親父は、自分の会社に借りていたトラックを返します。

移動に大きな時間を要するため、今日は会社に泊まると言いました。

私はよくトイレを借りていた親友の家に泊めてもらうことにしました。

寮には妹と母と犬2匹が残ります。

母と妹は寮に居てもやることがないので、近所を散歩したり、銭湯に行って久しぶりのお風呂を楽しんでいたようです。(やはり時間制にしてくれているとはいえ、寮の風呂に入るのは抵抗があったようです。)


その日の夕方、親父と二人で再び神戸の家に帰って来ました。

そこで、親父の、いや我が家の期待を大きく裏切るショッキングなものを目にすることになりました。

家の玄関にいわゆる「赤札」が貼られていたのです。

赤札・・・全壊判定の証です。

「倒壊の危険があるため立ち入り禁止」と書かれています。

前にも書きましたが、私の実家は完全には潰れておらず、カタチは残っているのです。

ですから、修復で直る、また住める、家族の誰もがそう思っていたのです。

ただ、前後、両隣が完全に倒壊しているので、我が家の周囲を撤去し終わらないと、修復ができないなと思っていたんです。

つまり、判定は黄札(半壊判定)だと信じていたのです。

全壊、、、もうこの家には住めない、帰ってこれないのか・・・
2008/02/09(Sat) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
あたたかい布団で・・・被災7日目
寮でのいたれり尽くせりのもてなしに、何だか恐縮気味の我が家。

トラックの中の荷物を降ろし終えると、家族4人で寮の近所にある中華料理屋さんに、遅い夕食を食べに行きました。


店に入ると、店員が暇そうにテレビを観ていました。

他のお客さんは誰もおらず、近所の友達と思わしきオバサンが遊びに来て、店の人とテレビを観ながらしゃべっています。

テレビには神戸の地震の被害の様子が流れていました。

震災後、テレビを観たのは初めてです。

家族全員、テレビに釘付けです。

神戸市長田区の火災で焼け野原になっている様子や、死者が現在何千人とか言う情報を始めて知り、まさに言葉が出ないといった感じでした。

料理を注文してからも、私たち4人はテレビに夢中になっていました。

店に遊びにきているオバサンと店の人が、私たちの方を見て、何やらコソコソ言ってるのは何となく分かっていました。

そして、料理が運ばれてきたとき、お店の人が私の母に聞きました。

「もしかして、地震の被害に会われた方ですか?」

「は、はぃ、そうなんです。今日、神戸から来ました。そこの○○㈱の寮にちょっと身を寄せてもらうんです。」

「やっぱりそうですか?それは大変でしたね。何かそうじゃないかなって思ってたんです。ゆっくりして行って下さい。」

そう言って、おいしい料理を出してくれました。


どう見ても、震災ルックの私たち家族。

親父も私も髭は伸びてるし、家族みんな1週間、風呂も入っていない。

はた目に見れば、普通の家族じゃないことはすぐ分かってしまったのでしょう。

まして震災のニュースに釘付けになっていましたから。

神戸では当たり前のこの震災ルックも、大阪にくれば被害らしき被害もなく、普通の日常です。

私たちはもしかすると、あまりにも目立っていたのかも知れません。


久しぶりにあたたかい手作りの料理をいただきました。

とてもおいしく感じました。


食べ終わって、お勘定をお願いしたとき、店のおばさんがこう言いました。

「お勘定は結構です。ボランティアとかできませんし、こんなことでしか神戸の人の支援できませんので。○○㈱の方は、いつもよく食べにきてくれるんですよ。大変だと思いますが、がんばってください。」

そう言って、一切のお金を受け取ろうとしませんでした。

お言葉に甘え、店を後にしました。

「ここにも助けてくれる人がいる・・・」

またも助け合いを再認識することになりました。


寮の部屋に戻り、今日は家族全員の疲労がピークに達していましたから、そのまま落ちるように寝てしまいました。


安心した建物の中に居られる幸せ。

確保されたプライベート空間があることの幸せ。

電気・水道が自由に使える幸せ。

行きたいときに自由に使えるトイレがある幸せ。

そして何より、凍えを気にせず、暖かい柔らかな布団に包まれて、寝られる幸せ。

震災前まで当たり前だった、これらの幸せを今まさに噛み締めながら、家族4人とも久しぶりに安堵の眠りにつくことができたのでした。
2008/02/08(Fri) | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
独身寮でのもてなし・・・被災7日目

神戸から8時間かけて到着した、大阪府茨木市の私の会社の独身寮。

昼過ぎに到着する予定が、予想をはるかに超える大渋滞の洗礼により、着いた頃にはあたりはすっかり暗くなっておりました。

そして、到着を待っていたかのように雨が落ちてきました。

寮の玄関は閉まっており、どこに挨拶したらいいかも分かりません。

「本当にここに入れるんだろうか・・・?遅くなってしまって迷惑と思われないかな?」

私は大きな不安を抱いておりました。


玄関横のインターホンを鳴らし、

「立来と申します。神戸から来ました。」

すると、すぐに小柄な男性が出てきてくれました。管理人さんです。

「聞いてるよ。遅かったね。来ないかと思ったよ。」

無愛想な対応に、嫌な不安がよぎりました。

「すみませんでした。大渋滞でして・・・」

(やっぱり管理人さん、機嫌が悪そうだ。そりゃそうだ、半日も遅れてきて、もう夜だし、くつろいでいたはず。。。)

両親が飛び出てきて、

「すみません、お世話になります。」

「大変でしたね。できることはさせてもらいますので、ゆっくりなさって下さい。」

「ありがとうございます。」

「じゃあ、立来くん。君に中のことを説明しとくよ。ついてきて。」

そういって、私を呼び、寮の中を案内してくれました。


2階の一番端の部屋を一部屋借りることになりました。

部屋は二人部屋でベッドが2つあります。

4人家族ですので、あと二組分の布団を部屋に用意してくれていました。

「部屋は自由に使ってくれたらいいから。」

この管理人さん、こういうぶっきらぼうな話し方をするのは普通のようで、決して怒ったりはしていませんでした。

それどころか、男ばかりの独身寮に、私の母や妹が来ることに対して、非常に細かな心配りを頂いたのです。


部屋を案内された後、トイレを案内されました。

もちろん男子トイレしかありません。

「大便器の一番奥を、立来さんのところ専用にしてあるから。妹さんやお母さんは入りにくいかも知れないけど、日中はみんな仕事に出てるから大丈夫ですよ。」

そういってトイレを見ると、一番奥の大便用個室のドアに「立来家専用。寮生使用禁止」とハリガミがされていました。

そして、次にお風呂に案内され、

「20:00~20:30を、立来さん家族の貸切にしてるから、お母さん・妹さんに安心して入って欲しいと伝えてくれ。君とお父さんはいつ入ってもOKだよ。」

トイレと同じように、浴室の入口に「20:00~20:30立来家専用。この時間帯は寮生の使用一切禁止」とハリガミしていました。

最後に食堂へ通されました。

「一応ここが食堂だけど、立来さんのところは妹さんやお母さんが居るから、部屋まで食事を運ぶようにするから。」

「何から何までありがとうございます。」

「何か不自由があったら、言ってくれ。できることは何でもするから。」

「助かります。ほんと十分すぎるくらいです。ありがとうございます。」

「今日はすまんけど、食事はもう終わってるから、外で食べて来て下さい。近くに何件か店はあるから。」

「はい・・・ところであの~」

「何だ、何でも言ってくれ。」

「ウチは犬が居るんですけど。。。」

「おおぉー、そうやったな。忘れてた。聞いてるよ。心配いらん。」

そう言って、寮の外に出ました。

そして、屋根のある自転車置き場の片隅に連れていかれ、

「ここでどうだ?寒いかな?」

「まったく問題ありません。室外犬なので寒さは大丈夫です。雨さえ凌げれば十分です。ありがとうございます。」


何もかも準備してくれていました。

本当に困っている時に助けてくれる、この喜びと感動は、不安と恐怖で疲れきった私の家族の心を温め、長い長い神戸脱出での疲れを忘れさせてくれました。

震災がもたらした唯一の良かったものとして語り継がれる、「助け合い」の精神。

テント生活でも、この独身寮でも、またこの先でも多々あるのですが、人間が助け合うことの大切さを改めて深く知ることができました。


余談ですが、寮の食堂の横の談話室に8名くらいの人が寝袋で寝ていました。

管理人さんに教えてもらうと、震災復興の応援で、東京や名古屋、九州などから応援の社員が来ていて、彼らはそのメンバーだそうです。

私の会社は前にも書きましたが、ある公共性の高い乗り物のメンテナンスをやっておりますので、震災後はその復旧にかなり仕事が忙しく、全国の事業所から応援に来てもらっていたようです。

仕事で遠方から来てくれている人が談話室の床に寝袋でザコ寝で、私たち家族が立派な部屋を借りるのは、何だか心苦しい気持ちになったことを今でも覚えています。

2008/02/07(Thu) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
神戸脱出・・・被災7日目

被災から7日目。

今日から天気が崩れるとの情報で、テントでの避難生活に限界を感じた我が家は、私の会社の独身寮にしばらく身を寄せる覚悟を決めました。

大きな決断でした。


1週間のテント生活に終わりを告げ、今日は引越しです。

朝から荷物をまとめ、これまで本当に役に立ったテントをたたみました。

テントがこれほどありがたい、あってよかったと思うことなど、普通の日常生活ではありえないでしょう。

このテントは寒さはもちろんですが、プライベートの確保に大きな役割を果たしました。

着替えたりするのに、小学校の体育館で避難生活をする人はどうしていたのでしょうか?

このテントのおかげで、家族全員大きく体調を崩すこともなく、震災から1週間を過ごすことができたと言っても過言ではありません。

避難していた公園を去るのは、後ろ髪を引かれる思いでした。

まだ多くの人が公園に残っています。

行く先のあての無い人は、雨が降ろうが、そこで何とか生活をしていかなければならないのです。

公園でともに避難生活をしてきた人たちは何だか、同士のような思いを抱いておりましたので、先にそこを去ることはひどい罪悪感を持ったことを覚えています。

そんな感情を抑えながら、私たちが荷物をまとめている間は何とか雨は持ちこたえました。


しかし、この雨・・・

公園で避難生活をしている人はもちろんですが、半壊程度の自分の家で暮らしている多くの人にとっても、大問題でした。

家に損傷を受けている関係で、雨漏りの心配があるのです。

特に屋根や壁に損傷を受けている戸建の住宅は多く、震災で飛ぶように売れたあのブルーシートを屋根にかけた家が街中に見えるような光景を作り出しました。



(写真は神戸市のHPからお借りしました。実際に私の住んでいた街(JR六甲道駅付近)の空撮です。屋根にブルーシートをかけている家が多く見られます。また、火災で街が消滅した地区もよく分かります。)


荷物がまとまると、親父が友人から借りてきたトラックに積み込んで、マイカーと2台で、出発しました。

トラックは親父が運転し、母と、家のすべての荷物を乗せました

家の車は私が運転。妹と犬2匹を乗せていました。

たしかAM10時頃に、公園を離れたと記憶しています。

長い長い神戸脱出になりました。

被災当日からそうなのですが、とにかく大渋滞です。

あちらこちらで通行規制がかかり、通れる道が限られている上に、神戸脱出組、ボランティアの方々の流入、緊急車両の慢性的通行と、渋滞は半端ではありませんでした。


(通行規制の様子。写真は借り物です。)


ほとんど動かないと言っても過言ではありません。

歩いたほうが絶対に早いです。


この、車での神戸脱出は、渋滞のイライラの記憶よりも恐怖の記憶が、鮮明に残っています。

こんな道路の脇を、車で走るんです。(写真は借り物です。あまりにも有名な阪神高速神戸線の横倒し。私の家の隣町です。)




渋滞でほとんど動かない状態で、こんな道路の近くを走るのは恐怖以外の何者でもありませんでした。

「今、余震がきたら、高架橋が落ちてきて、この車ごとペシャンコになってしまうんじゃないか・・・?」

そんな心理状態で、特に高架橋の上を通過するとき、同じく下を通過するときは、一刻も早くそこを通過できるよう祈りながら運転していました。


被災当日以外は恐怖というより、不安の心理状態でしたが、この日は久しぶりに恐怖、「死ぬかも知れない・・・」という感情が出てきて、車のハンドルを握る手はアブラ汗でびっしょりでした。

午前中に出発した私たち家族は、2時間以上経って、お昼になってもまだ芦屋付近をトロトロ前進しています。

恐怖による感情の支配は、昼食の時間を迎えても食欲は出ず、ひたすらハンドルを握っていました。


神戸市灘区から、目的地の大阪府茨木市までは、通常だと高速道路を使って1時間弱。

下道で行ったとしても2時間はかかりません。

ですから、その倍の4時間かかったとしても昼過ぎには、茨木の独身寮に到着の予定でした。

しかし、この日2時間経っても、まだ芦屋付近です。距離にして20Kmも進んでいません。

長い長い神戸脱出です。

兵庫県を脱出してからは、比較的交通量がマシになりましたが、激震地区(神戸~西宮)を抜けるまでに結局5時間を要し、最終的に茨木市の独身寮に着いたのは8時間後の夕方6時でした。

周囲はすっかり真っ暗です。

そして、雨は少しずつ落ちて来ました。


昼過ぎに到着すると伝えているのに、半日も遅れてしまった。

「管理人さんは怒ってるんじゃないか?本当にここに入れてもらえるんだろうか?犬2匹も本当に話はついているのだろうか?どこに挨拶すればいいだろう・・・」

不安が不安を誘いました。

「本当にここに来て良かったんだろうか・・・」

2008/02/06(Wed) | トラックバック(0) | コメント(5) | page top↑
決断を迫るとき・・・被災6日目
テントでの生活も6日目。

いつまでもこの生活を続けるわけにもいかず、ここのところ毎晩、”これから”について、家族と話合っていました。

今ある選択肢は次の通り。

①神戸周辺で賃貸マンションを借りる。

②滋賀県の祖父の家に移る。

③まだテントで過ごして、仮設住宅の入居を目指す。

④私の会社の独身寮に家族で移る。



賃貸マンションは経済的に苦しい思いをするかも知れませんが、一番無難な選択肢です。

しかし・・・まず、不動産屋が営業していません。

不動産屋にコネもありません。

しかも、噂では神戸近辺の賃貸マンションは、震災特需でどこも満室だとか。。。


滋賀のおじいちゃんの家に行こうか?

これは一番リアリティのある選択肢でした。

しかし問題は、その”遠さ”です。

父の職場は神戸です。朝は相当早いです。

母もパートですが、職場は近所です。

妹はまだ高校生。もちろん神戸の高校に通っています。

そして私の会社は大阪(梅田)。

家族の誰もが、その遠さのために生活の支障が出ることは明白でした。


仮設住宅建設の噂も避難所周辺では出始めました。

あと少しの間、テント生活を頑張れば、仮設住宅ができるのか?それまで我慢するか・・・

あまい考えでした。

仮設住宅が建つのは、いつのことなのか明確ではないし、第一建つと言う保証もない。

建ったところで、当然、高齢の方や障害のある方が最優先で、我が家のように家族全員元気な上に、テントも持ってるところに順番がまわってくるのは、いつになることやら・・・容易に予想できました。


最後の選択肢は、私の勤め先の会社の独身寮に行くというもの。

場所は大阪の茨木市。

神戸からは離れますが、滋賀の祖父の家よりは数段、神戸に近い場所です。

もちろんずっと住める場所としてではなくて、この不自由なテントでの避難生活からの一時脱出が目的です。

母や年頃の妹が居ますが、贅沢を言えるはずもなく、選択肢としては一番悪くないかなと、家族の意見は一致していました。


しかしこの時、私たち一家は、実はここから動くことはまだ真剣に考えていませんでした。

なぜなら、完全な倒壊を免れているあの家(実家)に戻れると思っていたからです。

両隣の家が、我が家にもたれるように倒壊しているので、そのガレキを処分し終わり、屋根や壁面を補修すれば、またあの家に住めるハズ・・・そう思っていました。

家をいつも見てくれている大工さんの○○さんと連絡が取れたら、家を見てもらって、それから考えよう。

そんなあまい思惑を半ば「そうあって欲しい」という思い込みで持っていたのでした。


ところが、そんな決断に踏み切れない避難生活に、決断を迫る出来事が迫ってきました。

「明日から、雨が降る」

そんな情報が入ってきたのです。

避難所の情報によれば、明日から天気が崩れ、何日か雨の日が続くと言うのです。

公園の避難生活者には焦りが浮かびました。

我が家もテントはありますが、テントの中には寒さを凌ぐ、布団や衣類で占領されており、様々な荷物はすべてテントの外に出しています。


(写真は借り物で、イメージです。)

テントも完璧な防水を誇っているわけではありません。

寝ている最中に雨でもしみ込んできたら、もはや外で寝ているのと同じです。

また、これまで深く触れてきませんでしたが、当初の記事で書いた通り、我が家は犬を2匹飼っています。

この避難生活ではずっと、テントの外で過ごしています。

もともと室外犬として飼っているのですが、この真冬に一日中雨に打たれるのは、誰が考えても狂気の沙汰です。

公園でのテント生活にとって、雨はもしかしたら命取りになるかも知れない。

家族誰もがそう思いました。

私は慌てて、テントのまわりにスコップで堀を作りました。

雨のキャンプではこうします。

私は何か仕事をしていないと落ち着かないような、そんな不安が襲ってきました。

そして親父に、

「テントを離れる時期に来たんちゃう?決断しようや。」



雨が降るという話がなくても、もはや家族の誰もが、疲労の蓄積と、洗濯・風呂といった問題のため、テント生活に限界を感じていたのは間違いありません。

家族会議の結果、

「私の勤める会社の独身寮へ一旦身を寄せよう。」

そう決まりました。

天候の崩れとテント生活の限界から、実家再建にメドが建たないまま、神戸を離れる決心をしました。


決めるなり、私はすぐに会社へ電話しに、公衆電話へ走りました。

そして、独身寮を確保してくれた所長に電話しました。

「所長、すみませんが、明日から雨が降るそうなので、寮の方へ家族で行かせてもらっていいでしょうか?」

「おぉー、そうしろ、一部屋ちゃんと確保してるからな。ところで、茨木(寮のある街)までの足はあるんか?」

「ハイ、あります。車は無事ですし、親父が会社からトラック借りましたので。」

「何時頃の予定や?」

「明日の午前中には出発して、昼過ぎには着きたいと思います。」

「分かった。管理人に言っとくわ。」

「ところで所長・・・ウチには犬おるんですケド。。。」

「いっ、犬。問題ないやろ、家族の一員や、連れて来い。気にするな。」

「2匹も居るんですけど・・・」

「何匹でも構わん。俺が言っておいてやる。」

犬のこと、しかも2匹もいること、かなり心配していましたが、所長が力強く背中を押してくれましたので、助かりました。

”犬も家族の一員”

この状況下で、他人のペットに対して、それが言える人はなかなか居ないと思います。

この時の所長の器の大きさには感動しました。


何はともあれ、私たち家族は明日、テントをたたみ、大阪の茨木という街にある私の会社の寮に向かうことになりました。

2008/02/05(Tue) | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
どこに行っても地獄・・・被災5日目

被災5日目、この頃の避難所の様子を思い出してみます。

公式な避難所である小学校の中は、よく知りません。

建物の中に入るのが極端に怖くなっていた私たち一家は、小学校の中の様子はあまり覗いたことがありませんでした。

私たち一家は、その隣の公園でテントを張り、避難生活をしました。

救援物資や情報が集まるのは小学校ですから、その近くにいることは、少しでも避難生活の不安を和らげることができたからです。


この公園も避難所に入れなかった多くの人が、避難生活をしています。

被災初日はそれこそ、地面に布団をひいて、毛布を頭まで被って寒さを凌ぐ人が多数居ましたが、この頃になってくると、地面に布団をひく人は居ません。

真冬の公園で、そんなの4日も、5日も続けてたらカラダがもちません。

この公園では、私たち家族のようにテントを張って生活している人は全体の3割ほど。

他の7割の人はマイカーの中で生活している人です。

当時はアウトドアブームでもなく、テントを持っている人は少なく、多くの人が車で避難生活をしていました。

つまり車にしろ、テントにしろ、最低限の寒さ対策をとれる道具を持った人だけが、この公園で生活し、それらを持っていない人は小学校の中で生活しているといった構図だったのかも知れません。

被災初日、2日目、3日目と、避難所である小学校にいた人の中でも、5日目あたりから、この公園に移ってきて車で生活する人が出てきました。


小学校の中では体育館にしろ、教室にしろ、知らない人同士が隣あって、生活します。

寝るときも知らない人が隣に居るのです。

他人のイビキ、咳、話声、匂い、モラル・・・

この自由な時代に、プライベートが全くない状態で、人間が生活できるのは何日が限界でしょうか?

非常事態とはいえ、特に年頃の女性にとっては耐えられないことでしょう。


(写真は神戸市のHPからお借りしました)

この生活に耐えられなくなった人が、さらに窮屈なスペースである車の中に場所を移し、公園へ移動して来ました。

避難所よりも狭いスペースですが、プライベートな空間を求めての行動です。


車での避難生活は大きなリスクを伴いました。

車で避難生活をしていた人に「急死する人」が出始めたのです。

これは実際に私自身が見たわけではないのですが、その噂は公園中に知れ渡っていました。

いわゆる”エコノミークラス症候群”です。

サッカー日本代表の高原選手がかかったことで有名になりましたが、当時では全く聞いたことがない症状です。(エコノミークラス症候群という名前も、震災当時は呼ばれてなかったと思います。)

飛行機のエコノミークラスのように「狭い」場所で、長時間同じ姿勢のままでいると、血管に血栓ができて血流が悪くなり、最悪の場合、死亡するというものです。

せっかく震災で助かったのに、避難生活で亡くなる・・・

”死”があふれているとは言え、5日目を過ぎ、そろそろ恐怖の連鎖から解放されたい時期に、このような噂は、車で生活している人を怯えさせました。

避難所(小学校)はプライベートがないからイヤだ・・・

車の中での寝泊りは命が危険だ・・・

じゃあ、これからどこでどうすればいいんだ。。。

そんな絶望にも似た声があちこちで聞こえ始めるのが、ちょうどこの時期でした。


そして5日目頃から少しずつ、避難所を去る人が増えてきました。

親や親戚、兄弟、頼れる身内が居る人は、神戸から脱出していったのです。

避難生活も5日目となると、その復興の目処に着目しますが、まったく先が見えないことと、公衆電話がつながり始めた関係で、離れて暮らす身内と連絡が取れ、しばらく神戸を離れる決意をした人が明らかに増えてきました。

「一旦、実家の○○に戻ります。お世話になりました。お気をつけて。。」

こんな人が公園の我が家のテントの周りにもチラホラ・・・

我が家もいろいろな選択肢の中で、今後、家族にとって、どうすることが最も最適なのかを考えるようになり、その日の夜もテントの中で家族会議が開かれました。

2008/02/04(Mon) | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
お前がいいと思うまで・・・被災5日目

被災5日目。

たしかこの日くらいから、公衆電話の行列が比較的少なくなってきました。

私はこれまで、多くの心配をかけているであろう方々に、少しづつ電話をして、「家族全員無事」を伝えてきましたが、まだ連絡できていないところがありました。

今思えば社会人失格かも知れません。

そうです。

私の勤め先、会社に連絡できておりませんでした。


私の勤め先は大阪(梅田)なのですが、地震被害の規模を知らない私は、神戸がこんなことになっているのだから、もちろん大阪も都市が破壊されていると思っていたのです。

ですから、会社もこんな状態で業務などしてるはずがない、真剣にそう思っていました。

これまで何度か電話してきましたが、いずれも繋がらず、

大阪もひどいんだろうな・・・だから電話も繋がらなくて当たり前。。。


この日、公衆電話が空いてきたこともあり、友人や比較的浅い親戚など、心配される度合いの低い方への電話と合わせ、会社にダメ元で連絡しました。

繋がりました。

当時まだ入社2年目のペーペーです。

「あのぉ、○○係の立来です。△△さん居ますでしょうか?」

と、上司につないでもらおうと思ったら、電話をとった人は私の名前を聞くなり、

「おおぉぉー、立来か!お前どこにおる?所長おぉー、立来から電話ですー!!」

当時の営業所のトップ、所長に電話を繋がれました。

普段だと、ペーペーの私はまず、話す機会のない方です。

「おおおぉ、生きとったか!どこにおるんや?怪我は?家は?家族はどうなんや???」

怒涛のように話しかけられ、いささか戸惑いました。

「連絡遅くなりまして、すみませんでした。」

「おぉー、心配したでぇ。しゃーない、連絡できんかったんやろ。」

受話器後ろで、ザワザワと声が聞こえてきます。

「おー、立来からの電話やって、生きとるみたいや!」

なんだか電話の反応から、会社の方に、とんでもなく心配と迷惑をかけているような気がして(実際にそうなのですが)、少しうろたえました。

あとになって知ったのですが、私の会社は全国で7000人超の社員が居ますが、一番最後まで連絡が取れなかった社員は私だったようです。(ブラックリスト入りかも・・・)

その関係で私の上司は震災直後から、私の安否を確認することが最重要ミッションになっていたようです。

怒涛のように現況を知りたがるのは無理もありませんでした。


とりあえず、これまでの経緯と現状を説明しました。

冷静になった所長はこんなことを言ってくれました。

今でもはっきり覚えています。

「分かった。とにかくご家族全員無事でよかった。会社のことは心配しなくていい。お前がいいと思うまで会社には出てこなくていいからな。大変と思うけど、そっち(自分の家族)のことをしっかりやれ。」

”お前がいいと思うまで、会社は休め”

この言葉には本当に救われました。

親父は相当疲れているし、あとは母と妹、女手しかいない。

私がこのテントでの避難生活から抜け出したら、かなり心配。やることは山ほどあるし、まだまだ先が見えない。

だいたい、電車は止まってるし、どうやって通勤するかも分からない。スーツもなければ、下着や靴下の洗濯もできない。Yシャツのアイロンなどももちろん。。。

出て来いと言われても無理な状況でしたが、テントを離れるわけにはいかない時期に、所長の言ってくれた言葉は、ジーンと来ました。


これも後から知るのですが、私の会社は、震災の時、ヒマだった会社ではありません。

ある公共性の高い乗り物をメンテナンスする会社ですので、地震で被害のあったその乗り物の復旧に、社員ほとんどが奔走し、ネコの手も借りたい忙しさ。

多くの社員が会社に寝泊りして、対応にあけくれたそうです。


続けて、所長は私にこう言いました。

「これからどうするんだ?」

「決まっていません。家族で相談中です。」

「あてはあるのか?」

「今のところありません。」

「30分後にまた電話かけて来れるか?」

「ハ、ハイ・・」

「総務と話して、住居を確保できないか聞いてやるから、30分後にまたかけてこい!」

「ハイ、分かりました。」


30分後、また公衆電話に並んで会社にかけました。

「大阪・神戸付近では社宅はどこも空いてないんやけど、独身寮に空きがある。家族全員で入れるようにしといたるから、一回考えてみろ。」

「ありがとうございます。親と相談して、また、ご連絡させて頂きます。」

「今、直近で必要なものはないんか?神戸支店からお前の避難場所まで走らせることできるぞ。」

「ありがとうございます。おかげさまで救援物資は多く届いておりますので、今のところ物資で必要なものはありません。」

「そうか、わかった。じゃ、気をつけてな。」

「はい、ありがとうございます。」


支援してくれる人はここにも居る・・・

当時、会社に入ってまだ2年目で、会社という組織がどういうものなのか、こんなときどんな力になってくれるのか全く分かってませんでした。

「俺の入った会社は、強い会社なんだな・・・」

何だか心強くなり、テントに戻りました。


その日の夜、テントの中で、”増えた選択肢”について、家族会議を開きました。

決断の時は迫っていました。

2008/02/03(Sun) | トラックバック(0) | コメント(3) | page top↑
住めない家のローン・・・被災5日目

被災5日目。

(正直なところ、被災4日目以降の出来事は、それが4日目なのか5・6日目なのか、よく覚えていません。こんなことがあったということは鮮明に記憶しているのですが。。。)

この頃になると、「死のあふれた街」は、少しづつやっかいな方向に進んで来ました。

「ゴミのあふれる街」になってきたのです。


倒壊した家のガレキ、避難所や公園から出るゴミ、もちろん倒壊を免れた方の家から出る生活ゴミも・・・

ゴミ収集車が来ませんので、ゴミ収集場付近には大量のゴミが溢れ出しました。

それこそ、山積みです。

神戸に住む人間は、山(六甲山)と海(神戸港)を持つその街並みの美しさに、誇りを持っています。

神戸に住むことをプライドとして持っている人が多いのです。

その美しい街が、ガレキや、ゴミの山で、ガラクタの街のようになってきました。

汚い話ですが、公園の隅にはテッシュで覆われた人間のトイレ跡も多くあります。

これは止む得ないことなんですが、プライドの高い神戸の人間にとってはツライ現実です。

地震はそのプライドまで傷つけてくれました。




(写真は借り物です。)


しかし、この問題に限って言えば、震災が冬に起きたのは不幸中の幸いです。

お察しの通りですが、これがもし夏なら・・・

ゴミから出る腐乱臭、、、想像しただけでもゾっとします。

あと、テントや車、避難所での生活では、お風呂に入れません。

特に避難所では多くの知らない人との共同生活です。

他人の体臭ほど臭いものはないと、よく言います。

そんな中で寝泊りできるでしょうか。。。

もっとツライのはトイレです。

トイレの惨状は以前にも書きましたが、水の流れないトイレ、、、これが夏だったら・・・

汲み取り式のトイレの匂いの比ではありません。


寒さで病気になる人や、インフルエンザが避難所で流行ったことなど、冬ならではの問題もありますが、
これらのことを考えると、地震が冬であったことは、まだマシだと考えるべきなんでしょうか?

もちろん、「冬でよかったね。」なんてことは、当時は全く考えていませんし、口にする人もいません。

誰もが皆、

「なんでこんな目に会うねん・・・」

と、消沈していたことは言うまでもありません。


救援物資などが充実してくると、身の安全が確保され、これまで話してきたような衛生的な問題以外に、今後のもっと大きな問題、当人以外誰も解決してくれない「金銭的な問題」が、多くの人の肩に重くのしかかり、メンタル面を病んでいくことになります。

家が壊れた。もう住めない。

これからどこに住もうか?

ここまでがこれまでの思考です。

この頃になると、壊れた家のローンが残っている。

建てたばっかりなのに。。。

これから住むと言っても、ローンを抱えたまま家なんて買えるはずもなければ、借りるのも苦しい。

何より、住まない、住めない家のローンはどうなるのか?

こんな問題・・・考えただけでも気が狂いそうです。。。


当時私は実家に居ましたので、自分でローンを組んでおらず、その苦しみはほとんど理解していませんでした。

幸い、私の親はすでにローンを完済していたので、二重ローンの苦しみは経験していないのですが、改めて、自分がローンを組む立場になると、その恐ろしさを常に考えてしまいます。

私が「家を建てるまで」のブログで、このことを言い続けてきたのは、こんな経験からです。

今一度、この「住めない家とローンの関係」について、リスクを考えてみて下さい。


このブログには、いわゆる家づくり系ブログの方が、多く遊びに来てくれています。

皆さん自身、ローンを組まれて生活していることと思います。

地震で家が破壊されることを考えたことがありますでしょうか?

心血注いだ家がなくなり、いらないモノ(ローン)だけが残る・・・

残って欲しいものは残らず、消えて欲しいものは、どんなことがあっても必ず残る。

こんなとき、あなたはもう一度立ち直り、家を建てることができますか?

2008/02/01(Fri) | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
 ホームに戻る 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。