地震のあった13年前、当時、デジカメはありません。
もちろん携帯電話もごく一部の方しか、所有していませんし、もちろん現在のようなカメラ機能もありません。
街の被害状況や、避難生活の状況を容易に撮影はできませんでした。
もちろん、ブログというものも存在してなかったし、個人がネット上でその状況を伝えるには、一部のホームページ作成技術をもった方しかいませんでした。
3日目頃になってくると、多くのマスコミや、ボランティアに紛れたヤジウマがやってきて、そこら中にカメラを向けていました。
当時、ギリギリの生活をしていた私は、このカメラを向けている人たちに吐き気を覚えていました。
壊れた家、燃えた家、倒壊した駅、横倒しの高速道路、裂けた地面、うねる道路・・・
こんなに多くの人が悲しみ、苦しんでいるサマをカメラにおさめて楽しいか?
本気でそう思っていました。
それくらい、日々が必死でした。
しかし、今ではその記録を残してくれた人には感謝しています。
また私自身も映像での記録を残したかった、、、そう思っています。
自宅の被害、近所の家の様子、公園でのテント生活、避難所の様子・・・
今、ブログでこうして、その頃の街の様子を振り返り、言葉で伝えようとしていますが、言葉ではなかなか伝わりません。
地震や大規模災害にあったことのない方に、
「死があふれている街」
と言っても想像できないと思います。
私の家族は運よく、全員が無事でした。
しかし、近所では多くの方が亡くなりました。
親しい友人の家族も・・・
亡くなられた方の倒壊した家の前には、花や線香が置いてあります。
また残された家族は、亡くなった家族の居る倒壊した家を離れられず、その側で避難生活をしています。
明らかに避難所よりも劣悪な環境ですが、それでも亡くなった家族の側にいたい。
悲しみ、苦しみ、絶望が街中を包んでおり、誰一人として笑顔はなく、もちろん笑い声など聞こえてきません。
大げさではなく、これが「死があふれた街」のナマの声なのです。
薄れ行く記憶の中で、映像に残したかった。。。
このブログにその時の写真でもあれば、もっと強く伝えられたどだろうし、読みやすくできたと思います。
死がそこらじゅうに点在する状況が長く続くと、人間の感覚はおかしくなってきます。
そして、自分も死ぬんじゃないか?こんなに多くの人が死んでるんだから、自分もいつ死んでもおかしくない、という恐怖の連鎖が発生します。
特に希望を無くした老人の方は、「もう死んでもいい」「こんなことなら死にたい」と口にしてしまいます。
あちこちで、こんな人間の心理が渦巻くと、街全体がどうなるか?
それが、「死があふれた街」なのです。
被災後、3日目、この頃から、”恐怖の連鎖”はエスカレートすることになりました。
避難所で亡くなる人の噂。
避難所に入れず、車で寝泊りしている人が突然死する噂。
もっと大きな地震が来る噂。
私たちの街の海辺に並ぶ、神戸製鋼のコンビナートにガス漏れが発生していて、大爆発が起きる噂。
道が途切れ、橋が落ち、通れる道は大渋滞で、神戸からは脱出できないという噂。
などなど。。。
人々の不安は、更なる不安をあおり、恐怖と絶望が街全体を覆っていました。
生の声、興味深く拝見しております。大変だったろうなぁ。。。とは思っても、実体験者の声は、それが真実だったからこそ心の深いところまで届いて響きます。記述していると、当時を思い出して辛い事もあるでしょうが、ご無理なさらず無知なあたし達に生の声を聞かせてください。
何度かマムさん経由でお邪魔しています。
コメントありがとうございます。
さすがに13年経ちますと、記憶が薄れておりましたが、これを書き出してからは、いろいろ思い出し始めました。
人様に何か伝えると言うような大それたことは書けませんが、自分の記憶の整理として最後まで書き続けますよ。
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