安全な広い場所へ・・・
そう思って避難した駅前の広場。
しかし余震が続く中、駅前ビルの倒壊があるかもしれないとの危険を感じ、立ち去ることにしました。
「安全な場所なんてあるのか・・・」
やはり広域避難場所である小学校に行こう、そう決めて、再び家族全員で移動を始めました。
小学校はやはり避難してきた人で溢れかえっていました。
すでに校舎の中は、我が家の避難スペースを確保できる場所はありません。
とても寒い日です。
少しでも寒さを凌ぐため、校舎の中は廊下や階段にまで人が溢れていました。
これまでほとんどの建物が倒壊している惨状を見てきた私は、建物の中に入るのが怖く、小学校に隣接する公園にテントを張ることにしました。
どっちにしても我が家は犬が2匹もいたので、校舎の中には入りにくいなとは思っていたのですが。
公園にも多くの人が避難してきていました。
駅前の広場と違い、周りに建物はなく、余震がきても危険は少ないと感じたことや、避難所(小学校)が隣なので、人が多く、情報が得やすいという点でも、ここで避難スペースを確保しようと決めました。
私は慣れた手つきで、テントを設営しました。
我が家の他にも、テントを張っている人はいましたが、ほとんどの人は、公園の土(地面)に直接布団をひいて、頭まで毛布をかぶり、寒さを凌いでおりました。
今はアウトドアブームもあって、テントの価格も下がり、多くの家では簡単なファミリーテントくらいは持っていると思いますが、その当時は現在ほどアウトドアが盛んではなく、テントも結構高価なものでした。
ですから、被災直後の避難生活においては、テントがあるとないとでは、大きな差がありました。(とくに寒さ対策という点で)
このとき持っていたテントは、比較的大型のロッジ型テントで5人用です。(当時は、コンパクトなドーム型はまだ少なかった。)
両親と妹と私と彼女、合計5人が、なんとか横になれる大きさです。
脚を伸ばして寝ることはできませんが、誰もそんなことは言いません。
このテントがあっただけで、とても贅沢で、本当に大きな差がありましたから。
テントが設営し終わると、まず一旦実家に戻り、避難生活に必要なものを取り出しに向かいました。
まずは、布団や毛布をありったけ、ひっぱり出しました。
そして、衣類も。
そうです。まずは寒さをいかにして凌ぐかです。
真冬の公園。
寒さ対策をしなければ、いくら都会の神戸でも耐えられません。
服を着込めるだけ着込み、布団や毛布はすべてテントの中に敷き詰めました。
寒さ対策を完了したら、次は食料の確保です。
冷蔵庫から調理なしで食べられる食材を取り出し、避難場所の公園へせっせと運びました。
たしかもうお昼をまわっていたと思うのですが、5時45分の被災から、朝食はおろか、昼も食べてません。
あまりの異常事態に、お腹がすかないのです。
昼過ぎになって、一息つこうと、家族全員で最初の食事をとったのは、今でも鮮明に覚えています。
冷たい食パンにマーガリンを塗って食べました。
あと、ハムを切ってマヨネーズをつけて食べたのも覚えています。
飲み物は牛乳を少し飲みました。
いずれも凍えるような寒さの中で、冷たい冷たい食事をとりました。
もちろん2匹の犬も、同じものを食べました。
かるい食事のあと、引き続き避難生活の必需品確保に動きます。
自然と役割分担ができました。
男手の私と親父は、潰れた家から生活資材を引き出し、テントへ運ぶ役目。
女手の母と私の彼女は、テント内、周辺の生活基盤づくり。
妹は犬の世話と情報収集。
こんな感じでした。
当時大阪市内に住んでいて
確かにすごい揺れでしたが
倒壊している建物は
近所ではありませんでした。
しかし報道で地震の規模の大きさを知り
愕然としました。
しばらくして当時鷹取に住んでいた友達と一緒に
ボランティア活動に参加しました。
あの地震では本当に多くのことを学び
また大きく価値観が変わりました。
しかしもう13年も経ってしまったのですね。
リックルハングさんの手記を読み
一気に当時に戻ったような気になってしまいました。
どんな災害でも共通することだと思うのですが、
それが避難を必要とする場合、
決断するタイミングが重要ですね。
決断のタイミングのよって、
避難所に入れるかどうかが決まり、
その後の避難生活にも大きな差が出てくるんじゃないかと思います。
被災時のその地域の情報は、メディアなどで得ることは難しく
、なるべく発信源に近い所にいることも必要ですね。。。
変な言い方かもしれませんが・・・
リックルハングさんご一家は、
いくつもの小さな幸運に恵まれていらっしゃったようにも思います。
まず、ご家族の皆さんがご無事で
すぐにまとまって行動することができたこと。
お父様が家具にぶつかられたということですが、
誰も下敷きにならなかったことも、幸運だったのかもしれません。
お家がすぐに倒壊されなかったこともですね。
そしてテントを持っていらしゃったことも。
生死をわける境のようなものは、
こうした小さな幸運の積み重ねから来るのかもしれません。
同時に、これは、万が一に備えて、
準備しておいた方がいいことでもありますね。
家の旦那さんは消防団に入って頑張ってます。時には、夜中の3時に出動することもあります。
普段は、「よくやってるな〜。どうせ、消防団の飲み会が楽しみなだけでしょ」と冷ややかに見ていましたが・・・。やっぱり、偉いと思い始めました。
年に1度は救急救命の免許の更新で、人命を救う勉強もしてます。(免許の正しい名前は忘れちゃいました^^;)万が一の時の行動も、ある程度身体に叩き込んであると思います。
とっさの事なのに、リックルさん家族の決断力、行動力には驚きました。
ひっさし振りのコメントです。
私も当時のこと思い出し、思わず涙腺が緩みました。
毎年見に行くルミナリエでも潤んできますが・・・。
立来さんの今後を見守りたいと思います。
震災グッズでシングルバーナー買いました。。。
私も価値観は大きく変わりました。
ボランティアされてたんですね。すごいな^^
鷹取もひどい地区でしたね。。。
大阪は中途半端に被害が出たので、被害の大きさで脚光を浴びた神戸地区と違って、置き去り感があったと聞きました。本当ですか?
確かにそうです。
小さなラッキーが重なって、今日まで生きてます。
この後も、ほんと小さな幸運に恵まれるんです。
芦屋の家でこんなブログ書いているなんて、その時は全く想像もしませんよ・・・
いつもありがとうございます!!
このときばかりは、自衛隊やレスキュー、消防士など人を助ける仕事のスゴさを、まざまざと見ましたね。
命をかけて仕事をする人たちの気迫は鬼気迫るものがあります。
旦那さん、立派ですよ。
日々の訓練はイザって時の心構えが違ってきます。
きっと、あぱさんを守ってくれるでしょう^^
観光化され、もはや単なるデートスポットと化したルミナリエも、僕ら神戸の人間、被災した人間にとっては、ちょっと違う。
僕はまだ、震災のあの翌年のルミナリエの感動を引きずってますよ。「がんばろう神戸」のフレーズも・・・
これからも見守ってねー^^;
→http://phenixashiya.blog98.fc2.com/tb.php/6-97f866d0


